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       4、月夜の畦道

 お雪は板場からすぐ出て来た。辺見の前に徳利と猪口(盃)、板わさと木の芽の胡麻和えが並んだ。


 お雪は今度はにこりともせず置いて行った。さっきの笑顔は、辺見の顔を見て思わず笑みが出たのであった。


 親爺の竹蔵が少しは笑えと何度も注意する。お雪は無愛想ではないが笑わない女であった。


 ほぼ毎日暴力にあっていた夫婦生活に、心が閉じてしまっていた。竹蔵は不憫でならなかった。


 お雪が9歳の時、労咳で母を亡くした。竹蔵の女房である。博打と酒三昧で苦労の掛け通しだった。


 お雪をよろしくお願いしますの、最後の言葉に胸が潰れた。奉公させるにはまだ早い。竹蔵はやくざ稼業から足を洗った。


「先生のお酒は切らさないようにな」


「はい、わかってますよ。ちゃんと見てます」


「もう少ししたら、この野菜の煮込みを持って行ってくれ」


「今出したばかりですよ」


「わかってるよ。飯のおかずは何にするかなあ」


 竹蔵は独り言を言いながら、入り豆腐を作り始めた。お雪は皿を洗い始めた。


「ガシャン!」


 何かが落とし割れた音がした。


「すまねえ、手が滑っちゃった。お雪さんすまねえな」


 酒のお代わりを頼もうと板場を見たが、誰も店内を見てない。仕方ないと立ち上がり、徳利を持って行こうとした。


 近くに住む左官職人の小吉である。名のごとく小男である。今日は大分酔っている。


「小吉さん、今日はもうおよしになったら」


「て、やんでぃ。お侍さんはまだ飲んでるよ」


「今、お出でになったばかりです」


「お雪さんの旦那か?注文もしねえのに酒と肴が出て来やがる。ちきしょうめ!」


 小吉はしっかり見ていたのである。お雪は返答が出来ずに困った。他の客も一斉に辺見を見た。


「お雪さん、酒を頼む」


 辺見は我関せずと言った顔で、静かに言った。


「はい、先生、すぐお持ちします」


 お雪は柔らかな顔になり丁寧に答える。そして、小吉に、


「茶漬けにしますね」


 先生と聞いて小吉は納得した。こくんと頷いた。客はそれぞれ一人客だ。話す相手はいない。また静かになった。


 大工の甚兵衛はお雪をじっと見つめていた。お雪は気付かぬふりをしていた。いつものことである。


 お雪の様子がいつもと違う。明らかに溌剌としている。目にも力があった。


 呉服屋の善吉は、落ち着いた男で歳は32歳。一度離縁している。勘の良い男で、じっと考え込んだ。


 甚兵衛は少し若く、歳は28歳。落ち着かないらしく、猪口を親指と人差し指で挟み、くるくると左右に回し始めた。


「はい、梅茶漬けにしましたよ」


 お雪は小吉の前に置いた。続いて徳利を斜め後ろの辺見に持って行った。辺見は最後の猪口酒をぐっと一息に飲んだ。


 その時、甚兵衛が立ち上がった。


「先生、どうぞ」


 お雪は徳利から酒を注いだ。甚兵衛はじっと見ていた。


「お雪さん、何でその男だけ特別扱いするんだよ。俺らだって同じ客だぞ!」


「同じです」


「違う!第一、俺らにはにこりともしたことが無い。この人には笑顔で酌をした」


 甚兵衛はその男の言い方をこの人と言い改めた。辺見の身体から発する無言の圧力を感じたのである。声が急に震えた。


「笑顔が少ないと言うなら、謝る。申し訳けない」


 竹蔵が普段の穏やかな顔を一変させ、凄みさえある顔で板場から出て来た。言葉を続ける。


「だが、甚兵衛さん、ここは蕎麦屋だ。笑顔を売ってんじゃねえ。帰(け)えってくれ!もう、来ねえでくれ!」


「親父さん、すまねえ、勘弁してくれ。俺が間違ってた。この通りだ」


 甚兵衛は土間に座り土下座をした。竹蔵は黙って板場へ戻って行った。


 甚兵衛はそのまま土下座を続けていたが、怒りが込み上げて来た。俺が悪いんじゃねえ。急に立ち上がり帰って行った。


 甚兵衛は家に帰っても怒りは収まらなかった。悔しいが親父の言う通りだ。お雪さんは悪くない。あのさんぴんが悪い。


 甚兵衛は仲間を集めた。あのさんぴんが店に来ないようにすれば良い。悪仲間5人が集まった。


 宵5つ半(21時)、辺見が店を出て来た。親爺とお雪がお礼を言いながら送り出した。外は月が出て明るかった。


 甚兵衛と仲間を含めた6人は相手がさんぴんと言うことで木刀を手にしていた。後ろから袋叩きにするつもりだった。


 幸いなことに、さんぴんは街中を過ぎて寂しい畦道を歩いて行く。気付いていないようだ。


 ここらで良いだろう。甚兵衛ら6人は一斉に木刀で殴り掛かった。辺見は店を出たところから気付いていた。


 最初に後ろから殴り掛かったのは甚兵衛だった。その木刀は瞬間に握り取られていた。同時に頭をしこたま殴られた。


 他の5人も頭や肩、腕と脇腹を木刀で殴られた。あたりは6人が呻き転がっていた。強すぎる。


 それもそのはず。辺見は一刀流の免許皆伝であった。これでも手加減をしていた。


 呻き続けている甚兵衛を見定めると、そばへ行って頭の天辺にもう一つげんこを加えた。


 甚兵衛は痛てーっと言って頭を押さえた。辺見は始終無言で、そのまま畦道を帰って行った。


                       つづく

次回は4月14日火曜日朝10時に掲載します