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        36、婚姻届け

「どうした?最近、黙っていることが多くなったが、何か心配事があるのだろう。話してごらん」


「いえ、何でもありません」


「嘘をつくな、その顔が物語っている。話してごらん」


「はい、実は……」


「何だ、どうした?その心配そうな顔は。話してごらん」


「…子供が出来たようです…」


「それは誠か!至極の喜びだ。おつるさんありがとう」


 松崎は、おつるのお腹に耳を寄せ片手で摩りながら、


「おい、聞こえるか?父上だぞ!元気で出て来いよ」


 おつるは満顔の笑みになって、


「まだ、早いですよ。でも、これからお腹がだんだん大きくなっていきます。店の者の手前どうしたらいいものかと…」


 おつるは婚姻はあきらめていた。一生日陰者で良いと思っていた。


「そうか、その心配をしていたのだな。簡単なことだ。明日、みんなに夫婦名乗りをしよう」


「松崎さんはお侍さんですよ。出来るわけがないじゃないですか」


「侍と言ってもどうにもならない浪人者だ。辞めれば良いことだ」


「そんなこと出来るわけないじゃないですか?」


「おつるさんを好きになった時から、それは考えていた。私はこれから商人になる」


「ご自分のご意志だけで決められるものですか?」


「今の世の中、幕府の失政で浪人者が溢れている。その幕府が浪人を野放しにしている。罪を犯さなければ何をしようとお構いなしだ」


「この川越にも、浪人を多く見かけるようになりました」


「そうだ、江戸で食い詰めて、近隣の藩へ流れている」


「これから、どうなるのでしょう?」


「益々増えるだろう。これだけ世の中が平和であれば、武力など必要ない。これからは知力だ。商人の時代だ」


「そんな時代が来るのでしょうか?」


「来る。いや、もう始まっている。だから、武士を辞める。そうすれば婚姻に何の問題も無い」


 おつるは、松崎の言葉に衝撃を受けた。私のために武士を捨てる。これ以上の愛があろうか。


「改めて言う。おつるさんと婚姻する。明日、町役に届ける。みんなにはその後で知らせる。いいね」


 おつるの目に涙が込み上がって来た。喜びと嬉しさに身体が震えてきた。その場に伏して泣いた。

                      

 翌朝、辰の刻(10時)松崎とおつるは町役を訪れた。2月の半ば、日差しが温かく、春を思わす良い天気であった。


 手続きは意外なほど簡単に行われた。人別帳に厩橋藩浪人松崎隼人、山形屋おつる婚姻と記載された。


「蕎麦でも食べていくか?」


「はい」


 おつるはまぶしそうににっこり笑って返事する。日差しがまぶしいのではない、松崎を見るのがまぶしいのである。


 初めて2人での外食である。中へ入って行った。


「何にする?」


「お任せします」


「私はもり蕎麦だ。おつるさんは好きなものを食べなさい。温かい方が良いだろう」


「同じもり蕎麦にします」


「そうか、ではもり蕎麦2枚頼む」


「あのう、お願いがあります」


 おつるは俯いて言う。


「どうした?何かあったか?夫婦になったんだ。何でも遠慮せずに言いなさい」


「…おつるさんと言うのは止めていただきたいのです。おつると呼んで下さい」


「はは、そうだな。おつる!これで良いね」


「はい」


 おつるは嬉しそうに頬をほんのり染めて言う。初々しいお嫁さんの誕生である。


 店脇の通用口から2人は入って行った。和助は客の応対をしている。治助がすぐに駆け寄って来た。


「おかえりなさいませ」


 2人がこうして出かけたことは初めてである。治助は何事かあったのではと心配だが、自分からは聞けない。


「変わったことはありませんでしたか?」


 おつるが聞いて来た。


「はい、今朝は1反売れました。さらに今、和助がお客様をご案内致しております」


「流石、治助ですね。私達がいなくても心配ありませんね」


「とんでもありません。いつも通りに、一生懸命やらせていただいております」


「今日は帰りに、みんなに話があります。よろしくお願いね。およねも一緒にお願いね」


「わかりました。他には何かありますか?」


「いいえ、それだけです」


「はい、わかりました」


 暮れ6つ(18時)雨戸が閉められ閉店した。手代3人と丁稚とおよねが並んで待った。 


 おつるが入って来た。帳場の松崎の所に行き頭を下げると、松崎はすくっと立ちおつると並んだ。


「みなさん、私達は婚姻しました。今朝、届をして来ました。よろしくお願いします」


 5人は顔を見合わせ一様に驚いたがすぐさま、


「おめでとうございます」


 口々に言った。


「ありがとう。仕事の役割は、これまで通りです。女将の私、帳付けの松崎さんもそのままです」


「ただし、明日から治助は番頭見習いとします。和助は手代頭、吉松は手代にします。もちろん、給金も上げます。頑張って下さい。以上です」


 3人は一様に驚いた顔をしたが、喜びを隠しきれない。およねが治助を嬉しそうに見ていた。


 翌日から吉松は外回りを言い渡された。山形屋の秘策が始まった。


                       つづく

次回は2月18日火曜日朝10時に掲載します