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             35、婚儀 1

 急のことである。美乃は緊張した。隣の俊介は正座に座り直した。市之進は黙って二人の前に座った。


「美乃、俊介さんがお前を妻にしたいと言う。お前の返事が聞きたい」


 美乃は夢にまで描いていた俊介の妻にと言われ、夢の世界と現実の世界がわからなくなり、茫然自失となった。


「どうした?」


 市之進の問いかけに、美乃は現実に戻りはっとなった。しかし、返事をしようにも喉がからからで言葉が出ない。


 胸が張り裂けそうだった。嬉しさに涙が溢れてきた。声が出ない。思わず両手で顔を覆った。


「どうしたのだ。お前の気持ちを聞かせてくれ」


 俊介が気になって美乃を見た。美乃の両肩は小刻みにを震えていた。俊介の心に不安な気持ちが広がっていった。


「よろしくお願い致します」


 美乃は身体を俊介に向き直り、顔を伏せたまま意外なほどはっきりと言った。俊介も美乃に向き直り、


「ご承知いただけるのですか?」


「はい、よろしくお願い致します」


 美乃は顔を上げたが、俊介を見ることは出来ない。心に不安を残していたからである。おちかのことを知っていた。


 二年程前、酔った兄市之進を送って来てくれた。温かい人柄に好意を持った。治療所が始まると恋に変わった。


 毎日が楽しかった。俊介と一緒にいられるのが幸せだった。その頃、俊介が急に痩せてきた。兄は過労と診た。


 急遽、月に1日の休みを作った。その日美乃は、俊介を見舞った。夕食を重箱に詰めて訪ねた。


 入口の近くまで来ると引き戸が開いた。綺麗な女の人が茶碗等をお盆にのせて出てきた。美乃はその前を通り過ぎた。


 初めての恋が一瞬に崩れた。この夜、泣き明かした。次の日、俊介を見ると諦めきれなかった。切なさになお胸を焦がした。


 気持ちを断ち切るため、美乃は買い物を理由に休みの度に長屋の前を通り過ぎた。半年後、俊介は一人になったと知る。


 その一月後、大家を訪ねた。おちかさんの友人と称し、帰らぬ事情を尋ねた。大家は美乃の清楚な顔と様子にすんなりとわけを話してくれた。


 郷里の兄が亡くなり、急遽、呉服屋の後を継ぐことになった。江戸に戻ることはないと聞かされた。


 その当時、俊介の憔悴した様子がやるせなかった。しかし、ひと月を過ぎた頃から、心はわからぬが憔悴は見られなくなった。


「これはめでたい!では早速婚儀を行おう」


「えっ、今ですか?」


 俊介が驚きの声を上げた。美乃も唖然とした。


「善は急げと言うではないか。嬉しくて思わず口から出てしまったが、大家に届けもしなければならない。月末の休みにしよう」


「わかりました。五日後ですね。美乃さん、それでよろしいですか?」


「はい、俊介さまがよろしければ私は構いません」


「よし、決まった!では長屋の人たちには集まってもらおう。うん、それは良い」


 市之進は、一人で呟いて悦に入った。まるで子供のように喜んでいる。


「橘さん、これ、お土産の雪駄です。浅草に寄ってきました」


「気を遣わせたね。わざわざ浅草に寄ってくれたのか。遠慮なくいただく。開けても良いかな?」


「はい、どうぞ!それからこれは美乃さんにお土産です」


「私にもですか、ありがとうございます。開けてもよろしいですか?」


「開けて下さい」


 俊介はわくわく顔で言う。四半刻もかけて選んだものだ。


「おーっ!流石に本場物は違う。早速履いてみよう」


「兄様、お履物は夜に下すものではありません」


 美乃がにっこり笑いながら言う。


「そうだった我慢する。造りに品がある。明日からの往診はこれで行く。医者の履物は力量を表すと言う。俊介さんありがとう」


 美乃は桐箱をを開けて声を失った。赤い珊瑚の一つ玉かんざしである。赤く艶やかに静かに輝いていた。


 黙って立ち上がると、部屋の隅にある手鏡の前に座った。手鏡を見ながら髪に刺した。顔がぱっと明るく見えた。


 生まれて初めての贈り物だった。それが好きな人からである。思いもよらぬかんざしだった。


 座ったままじっと手鏡を見ていた。次第に自分の顔がゆがみ始めた。嬉しくて涙が込み上がってきた。


「美乃、どうした?」


 振り向いた美乃は涙を浮かべていた。


「似合ってるよ。良く似合ってるよ……」


 市之進は立ち上がり美乃のそばに行き、そっと肩を撫でなた。目頭が熱くなり涙が込み上がってきた。


 兄として何もしてあげることが出来なかったが、俊介に娶わせることが出来た。その妹の嬉しそうな顔がせつない。


 万感を込めた兄の顔に、美乃は元に向き直り両手で顔を抑え、声を殺して泣き始めた。


 俊介は二人の心情を読み取ることが出来なかった。ただ茫然と立ち尽くしていた。

申し訳ありません。文量が収まりません。36回まで書かせていただきます。次回6月4日火曜日朝10時に掲載します。お詫び申し上げます。