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    34、剣の極意

 松崎は胸が熱く締め付けられるようだった。嬉しさに自分の気持ちをどうしていいかわからない。


 すり寄ると、おつるの両手を取り抱きしめた。おつるの頬から涙が伝わってきた。松崎はなぜかせつなくなった。


 松崎の繊細な心は、嬉しい喜びの奥にせつなさを感じていた。今はその理由に気付いていなかった。


 一方、おつるはこれ以上の喜びはないと、心の底から嬉しかった。しかし、同時に覚悟もしていた。


 妻にはなれない。松崎は浪人とは言え侍である。日陰の身でも良い。それでも一緒になりたいと思っていた。


 そこに大きな矛盾があった。山形屋をどうする。今、おつるが山形屋を出るということは、潰すと言うことである。


 そんなことはどうでも良かった。おつるは、今この喜び以外に考えたくはなかった。


「おつるさん、どうした?何か心配事があるのか?」


「いいえ、ありません。嬉しくて泣いてしまいました。ごめんなさい」


「ひょっとすると、店のことかな。心配しなくて良い、このままで良いよ。暫くは二人だけの秘密にしておこう」


「はい、ありがとうございます」


 松崎に考えがあった。おつるを好きになった時、決意したことがあった。一緒になれるなら侍を辞めても良い。


 おつると一つになった今、改めて決意した。時期を見て話す。これからは商人として生きるつもりだ。


 松崎は自分の部屋に戻って行った。


 翌朝、松崎はいつものごとく最後に台所へ入って来た。かまどの火と火鉢の炭火で台所はぬくぬくと温かった。


 かまどの鉄瓶がしゅんしゅんと湯気を立てている。おつるは松崎が入って来ると下を向いた。顔を合わすのが恥ずかしかった。


 松崎もおつるに顔を合わすことなく、おつるの横に座った。おつるのいただきますの声に5人の朝飯が始まった。


 朝飯が終わると、おつるは部屋に戻り帳簿を調べ始めた。松崎の言う固定観念を捨てることである。


 今度は上顧客ではなく、3年続けて来店のない顧客を選んだ。これまでは訪問する価値はないと考えていた。


 おつるは上顧客を訪問した時のように、吉松に20反を背負わせてその顧客を訪問した。


 客はおつるの来訪に驚いた。山形屋が直接来訪したのは初めてである。もちろん、他の呉服屋も同じである。


 この時代、呉服屋が客を直接訪問することはなかった。訪問してみると、3年以上来店の無い理由が分かった。


 殆どが着る人がいなくなったか、家計の事情からであった。5軒訪問して1軒の割合で反物を見てくれた。


 中には喜んでくれ、是非また訪ねて欲しいと言う客もいた。山形屋までの距離は、老いては歩けないと言われた。


 おつるは顧客の色々な事がわかり始めた。そして今回の訪問がなければ、そのまま来店はなかっただろうと思った。


 今夜、松崎との帳簿合わせの時に、剣の極意を色々聞いてみたいと思った。今まで見えなかったことが見えてきた。


                        つづく

次回は2月4日火曜日朝10時に掲載します