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             32、千両箱

 その夜おちかは眠れなかった。仁兵衛の『私の子とすれば良い』その言葉を思い出すと胸は苦しくせつなくなった。


子を宿していることは決定的な破談理由である。にもかかわらず、一方的に私への愛である。それほどまでに私を。


 おちかの覚悟が揺らいできた。父無し子を孕んだ華丸呉服の女将を世間が許してくれるだろうか。


 父母の喜びも、つかの間の喜びと帰してしまう。父吉兵衛の落胆を思うと胸を引き裂かれるようだ。


 さらに大事なことを忘れていた。いや、考えまいとしていた。生まれてくる子の幸せだ。


 生まれた時から世間の荒波を受けなければならない。母として守れるのは限界がある。思えば、もう胸が痛い。


 おちかには、それらを越えた苦しみがあった。俊介のことである。自分から別れて来たが、別れられたのではない。


 万に一つ迎えに来てくれるかも知れない。せつない女心である。その一縷の望みさえも胸の奥底に抑え込んでいた。


 おちかは神がいるなら試されていると思った。生きるということは、今日を明日に繋ぐことだ。流れる涙は止まない。


 とうとう一睡もしなかった。


 明け六つ半(朝7時)、食事後の父母の部屋に行った。父母は一緒にお茶を飲んでいた。


「お話がございます。よろしいでしょうか?」


「どうした?何かあったようだな。話してごらん」


「先日のご縁談受けさせて頂きます」


「おちか、良く決心してくれた……」


 吉兵衛はそう言った後、言葉を呑んだ。礼を言うつもりだった。店の実情を誰よりもわかっていた。母は俯いていた。


「では、朝の内に善兵衛殿に使いを出そう」


「いえ、その必要はありません。今日、仁兵衛様がお出でになります」


「何、仁兵衛様が来る?それはどうしたことだ」


「実は昨日お見えになりました。私はお客様と思っておりました」


「番頭さんは何も言っていなかったが」


「私が口留めを致しました。申し訳ありませんでした」


「そう言うことか、わかった。では、お出でになったら私も一緒しよう」


「いえ、私だけにして下さい」


 吉兵衛は何かわけがあると読み取った。


「わかった、お前の言う通りにしよう」


 一刻後、朝5つ半(朝9時)早々と仁兵衛が店を訪れた。番頭がおちかに言われたように奥の部屋に案内した。


 仁兵衛は緊張で青ざめていた。これまで女は金に飽かせてどうにでもなった。まして、役者並みの好男子である。


 しかし、女に心を移すことなど微塵もなかった。心はいつも醒めていた。本心での道楽ではなかったからである。


 ひと月前、通りがかりに華丸の店先縁台で、お茶を出す上品な女が目に留まった。後で客に聞けば女将だと言う。


 以来、そのにっこり笑った横顔が忘れられない。毎日のように通りがかったが、その後は帳場座る姿を見かけるだけだった。


 想いはますます大きくなった。生涯の妻はこの人しかいないと思うようになっていた。一目惚れと言うのだろう。


 仁兵衛は父吉兵衛に相談すると、道楽が止むならと大乗り気で人を介して華丸に打診した。丁寧に断られた。


 吉兵衛は仁兵衛の道楽の本心をわかっていた。だから嫁を取らそうと数多くの縁談を持って来た。仁兵衛は全て断った。


 それが今度は、自分から嫁を貰いたいと言って来た。華丸には、婿入りでも良いと折れたがそれも断られた。


 吉兵衛は乗っ取りを危惧されたかと、千両の結納金を出すことにした。それでも断られ途方に暮れた。


「失礼致します」


 おちかが入って来た。襖を閉めると、そのまま正座して深々と頭を下げた。


 仁兵衛は断られるのだと落胆のあまり気落ちした。それでも顔に出すまいと無表情を繕った。


「昨日のお話、よろしくお願い致します」


「女将さん!ありがとう。ありがとう。ありがとう」


 仁兵衛の目が潤んできたかと思うと、みるみる内に大粒の涙になりぼろぼろとこぼれて来た。それほど嬉しかった。


「不束者ですが、どうぞよろしくお願い致します」


 おちかも涙を潤ませてていた。


「女将さん、私は今すぐ家に帰って来ます。善は急げといいます。結納をさせて下さい」


「仁兵衛様、女将さんは止めて下さい。おちかと呼んで下さい」


「おちかさん、夕方には戻って来ます」


 仁兵衛は店を出ると駈け出した。道行く人は何事かと驚き道を空けた。高崎の生糸屋善兵衛では大騒ぎになった。


「お武家様、それは凄い結納行列でしたよ。5台の籠の後に御所車3台。付き人が10名」


 高崎宿の宿屋のおやじは得意そうに話していた。小粒銀が効いたようだ。


「御所車は屋根を取り払い千両箱を積み、その上に結納ののぼり立て、残り二台の御所車も屋根を取り払い反物など色々なな結納品が山と積まれていました」


「さすが生糸屋善兵衛の結納だと町中が見物していました。しかし、婿入りですよ。千両の結納金は凄いですね」


「町中の皆が千両箱を見ようと集まってきました。私も初めて見ました」


「婚儀がさらに凄かった。華丸の店先に5樽の振舞い酒。そして祝いの撒き銭。町中がお祭り騒ぎなったものです」


 俊介は親爺のしゃべりに任せて黙って聞いていた。


「婿は高崎では有名な道楽息子です。さすが、子作りも達者だったようですね。女将さんは腹ぼてで先月からお店に出てないようですよ」


「女将さんは何と言う名前だ?」


 俊介が聞いた。


「確かおちかさんと言うお名前でしたね」


                       つづく

次回は5月14日朝10時に掲載します