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      2、つる 

 「お帰りなさいまし」


 女中が口々に声をかける。


 宿の入り口は出立の客で賑わしている。それでもこの夫婦は赫灼として目立つ。宿の主人が飛んで来た。


「何かございましたか?」


「すまんが、先ほどの部屋を使わせて貰いたい」


「そうでございますか。どうぞ、部屋はそのままでございます。ごゆっくりお使い下さいまし」


 主人はほっとした顔になり、女中に部屋へ案内させる。


「今日も良い天気だね。ここも江戸だから何も急ぐことはない。お座りなさい」


 女は夫婦の前に、かしこまるように座った。その時、戻って行った女中がお茶を持って来た。


「丁度良かった。喉を麗して少しゆっくりしよう」


「あなた、お話を伺うのでしょう」


「そう急かせるものでない。どうぞお茶を飲みなさい」


 女に向き直って、にっこり笑いながら言う。


「世の中は持ちつ持たれつだよ。袖触れ合うも他生の縁というではないか、微力だが力になれることもあるかも知れない。聞かせて貰えるかな?」


「はい、お話申し上げます。私は川越の呉服屋の娘です。3代続いております」


「2代目の父が店を守るために、先代から仕える番頭を姉と夫婦にし、3代目店主としました」


「息子さんはいらっしゃらなかったのかな?」


「はい、残念なことに姉と私の二人だけです。父は良い婿を貰ったと喜んでいました」


「ところが父が病で亡くなると、真面目で勤勉な番頭は豹変致しました」


「どう変わりました?」


「店の金を持ち出し博打に使う。妾は囲う。咎める姉に暴力を振るう。傍若無人な振る舞いでした」


 夫婦に言葉はなかった。黙って聞いていた。


「病弱な姉は精神的にも打ちひしがれ、風邪をこじらせて亡くなりました。母は悲嘆にくれて、後を追うように亡くなりました」


「私は絶望で生きる望みを無くしました。死のうと思いました。その私をこの男は手籠めにしました」


 女房は片袖で涙を抑えた。


「夜になると、使用人は皆自宅へ帰ります。この男と二人だけになりました。毎晩が地獄でした」


「死のうと何度も思いましたが、このままでは死ねません。この恨みを必ず晴らす決意しました。そして昨日家を出て来ました」


 女は涙を浮かべていた。途中から顔を伏せて話した。姉と母のことを思い出していた。悲しさと悔しさからである。


「酷い話だ。今時、そんな男がいるのか!恩を仇で返す。人間じゃない。犬畜生にも劣る」


「ねえ、あなた。家に来ていただいたらどうかしら?」


 女房が袂で涙を拭きながら男に言う。


「そうだ、それが良い。どこか行く宛てはあるのかな?」


「いいえ、ありません」


「そうか、じゃ、しばらく家でゆっくりしていると良い」


「ありがとうございます。それではお言葉に甘えまして、お願いがございます」


「遠慮なく言ってごらん」


「女中でも何でも致します。お雇いいただくわけにはいかないでしょうか?」


「ああ、良いとも。実は家も呉服屋だ。その方が良いなら考えてみよう。ところで、何か出来る仕事はあるかな?」


「はい、手代の代わりにお客様のお品選びを致しておりました」


「ほう?女のあなたが店に出た?」


「はい、父に言いつけられました。子供は姉と私の女だけでしたので、店に何があっても良いようにと、手代と番頭の仕事を覚えさせられました」


「手代と番頭は男と決まっている。しかし、客の半分は女だ。手代に女の気持ちをどこまで汲み取れるかは疑問だ。お父上は優れたお人だ」


「実は今、手代が病で休んでいる。手代の仕事を手伝って貰えないか?女の手代とは面白い。やってみよう」


「ところで名を何んと言う?聞いていなかったな」


「失礼を致しました。つると申します。川越は山形屋の娘にございます」


「おお、山形屋さんの娘御であったか。とすると今の話は、山形屋さんの話であったか。聞きしに勝る話だな」


「私共をご存じでございましたか?」


「噂は聞いていた。実は先代にはお世話になったことがある。奇遇な縁だな」


 男は目をつむり腕組みをした。何か思い出したのであろうか、じっと考え込んだ。そして、


「おつるさん、辛かったね。一人で良く耐えて来た。さすが一兵衛さんの孫だ。力を貸しますよ。一兵衛さんに報いるためにも」


「祖父をご存知でしたか?お恥ずかしいお話をしてしまいました」


「おつるさん、一兵衛さんのお話はこの人から何度も聞かされました。もう他人事ではありません。私も協力させていただきます」


「ありがとうございます。どうぞよろしくお願いいたします」


「よし、話は決まった。じゃ、宿を出よう。今から発てば丁度昼頃には浅草だ。元気付けに鰻を食べて帰ろう」


「それは良いですね。1年ぶりですよ」


 女房はぱっと明るい顔になった。


「おつるさん、鰻を食べて行きましょう」


「私もご馳走になってよろしいのですか?」


「当然だよ。実は市兵衛さんに鰻をご馳走になったんだ。その話はしておかなければならない。食べながら話そう」


「そうですよ、今あなたがあるのは一兵衛さんのおかげですよ。今日は良い日ですね」


 女房は嬉しそうに言う。宿を出ると、三人は浅草へ向かって歩き始めた。足取りは軽かった。


                      つづく

次回は6月25日10時に掲載します