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     28、揚げ出し大根

 「この大根の料理は何と言うのですか?初めて食べました」


「はい、揚げ出し大根と言います。父が大好きで、母がよく作っておりました」


「母上が考案なさったのでしょうか?」


「いえ、母の料理は江戸の料理が多いようです。父が江戸に出た時、医書と一緒に料理の本を買って来ました」


「ほう、母上は料理の研究をなさっていらっしゃったのですか?」


「父が薬と食は同じことだと言いました。漢の言葉に薬食同源とある。日頃の料理は大事だと言っていました」


「薬食同源とは含蓄のある言葉ですね。目からうろこの気持ちです。母上は実践されていたのですね」


「母は私に良く言っていました。食べ物は血は血となり肉は肉となる。おいしい料理は女の役目です」


「素晴らしい!血は血となり肉は肉となる。それを美味しく料理すること。正に美乃さんの料理だ」


「私には出来ていません。ただ、母の真似をして作っているだけです」


 その時、引き戸を軽くたたく音がした。二人が引き戸を見ると、


「私だ」


 市之進の声だ。美乃が立ち上がり、引き戸を静かに開けた。


「お帰りなさい!」


 明るい声で言う。


「なんだ!突っ支い棒をしてなかったのか」


(突っ支い棒=戸と柱に斜に棒を渡し戸を開かなくする)


「お邪魔してます」


「ありがとう、おかげで安心して御呼ばれして来た。これからも頼めないだろうか?」


「ありがとうございます。美味しい食事はいただけますし、こちらからお願いしたいくらいです」


「そうか、それは良い!今日から毎晩お願いできないだろうか?」


「えっ?」


「冗談、冗談」


 笑いながら言ったが、市之進はそれを願っていた。


「さ、ではお礼がてらに酒盛りをしようではないか。あれ、飲んでいなかったのか」


 美乃を咎めるように見る。


「いえ、お断りしたのです。酔うと用心棒が務まらなくなりますから」


「そうか、すまなかったね」


「いいえ、では今晩はこれでお暇します」


「なんだ、もう帰るのか。少し話があるのだが…。そうか、ではそこまで送ろう」


 市之進は長屋通りを抜けたところで、急に立ち止まった。


「こんなところで話すことではないのだが、美乃をどう思う?」


「どう思うって、どう言うことですか?」


「いや、質問が悪かった。人としてどう思う?」


「素晴らしい女性です。心もお顔も美しい。嫁がれないのが不思議です」


「ありがとう。では、佐久間さん、美乃を娶っていただけないか?」

 

「えっ……」 


 俊介は言葉を失った。  


 それは、凡そ二年前のことである。酔った市之進を長屋まで送り届けたとき、迎えた妹の美乃に一目で心を奪われた。


 どんなに想い焦がれたか、夜も眠れぬくらい想いを寄せた。しかし、高嶺の花と諦めた。まして、厳格な兄がいる。


 そんな時におちかと結ばれた。それからは不思議に焦がれるような気持ちは無くなった。


 代わりに自分のことを何かと気遣い、世話をしてくれるおちかを愛しく思うようになった。


「すまん、勝手なことを言ってしまった。忘れてくれ」


 市之進は無言の俊介を、断り辛くいるものと誤解した。


「いえ、違います。美乃さんの気持ちはどうなんですか?私のような男では、お困りになると思います」


「美乃は佐久間さんを好いてる。兄の私が良くわかる。苦労ばかりさせて来た。佐久間さんなら安心して嫁がせられる」


その言葉を聞いて俊介は嬉しかった。美乃の顔が浮かんだ。同時におちかの淋しい顔が浮かんだ。


 おちかが郷里に帰ってからは、辛く悲しい日々が続いた。何をするにもおちかを思い出した。


 どんなに自分を気遣い助けてくれたことか。それを当たり前のように思っていた。


 医書の内容が自分の見解と違い、当たり散らしたことが何度もあった。おちかは黙ってお茶を淹れてきた。


 どんな時も部屋の中が暖かい空気に包み込まれていた。慣れは怖い。いつの間にか全てが当たり前と思っていた。


 おちかにしてあげたことは何もない。自分がして貰うことばかりだった。いなくなってやっと気がついた。


 半年経っても思い出す度に涙がこみ上げて来た。何と利己的な人間だったのかと、おちかに心の中で謝った。


 忘れなければならない。そしておちかの手紙にあったように、医者として精進せねばと思った。


 精進を発展と書いたのはおちかの心だった。精進とはまだ未熟の意味がある。心憎い程である。手紙を思い出した。


〝…この部屋は年内の支払いが終えております。取り急ぎにつきまして、荷物等はこのままにさせていただきます…〟


「橘さん。嬉しいお言葉ありがとうございます。実はわけがありまして、お返事を二カ月程お待ちいただけませんか?」


「それは構わないが、わけを聞いても良いか?」


「今、兄が病に臥せっております。万一の時は私が家督を継ぐことになります。その時は兄嫁と一緒にさせられます」


「兄上の病は何だ?」


「労咳だそうです先月、家僕が父の手紙を持って来ました。医者は軽度だから2、3か月安静にしていれば直ると言ったそうです」


「それは心配だな。しかし、医者がそう言うなら根拠があるはずだ。治ると思ってよい」


「ところが父は万一を考えて、手紙を届けさせました。それが先月のことですから後2か月、年内には結果が出ます」


「わかった。急いで夫婦になる理由も無し。待とう。今度兄上を見舞って来たらどうだろう。良い薬もある」


「ありがとうございます。そうさせていただきます」


 俊介は咄嗟に嘘をついた。おちかの手紙に年内は家賃を支払ってありますの文を思い出したのである。


 もしかして、帰って来るかも知れないと思った。美乃の顔が浮かんだ。胸が痛い程せつない。


                        つづく

次回は4月16日火曜日朝10時に掲載します