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     27、煮しめの味

 半年が過ぎた。治療所は俊介と美乃の二人に任されていた。5カ月になる。市之進は往診を専任とした。


 半年前の俊介は急激に痩せた。誰の目にも明らかだった。頬はこけて精彩がなかった。それが今では精悍な医者だ。


 俊介は医書の研究を前にも増して夢中になった。医者として精進することが、自分の目指す生き方だと言い聞かせた。


 それは、おちかに去られたことへの反動でもあった。悲しさ淋しさをばねにした。


 患者を診ながらの徹底した研究は、応用力を養った。病を的確に判断し、薬草や薬剤を調合しそれを服用させた。


 効果はてきめんであった。患者は口々に病快復のお礼を言い、誉めそやした。


 僅か1年を得ずして、医の知識と研究は並みの町医者が到底及ぶところではなかった。加えて天才的な頭脳を持つ。


 患者の評判はどんどん広がり、遠方から病を無理してでも来るようになった。特に女性の患者が多くなった。


 俊介の初めの頃は、患者の間でやぶ医者と陰口を叩かれていた。それが今では名医と言われるようになっていた。


 今日最後の患者は男だった。10日程前に左腕に包丁を落としたと駆け込んできた。見れば刀傷とすぐにわかった。


 俊介は腕元をきつく縛り、傷口を縫い合わせた。7針縫った。幸い傷は深くはなかった。聞けば魚の棒手振りと言う。(棒手振=魚や野菜を天秤棒をかつぎ売り歩く)


「いてっ!いてっ!先生もっとそっとして下さいよ。いてっ!」


 俊介はその声を無視した。無言で、素早く傷口の糸を一針づつ抜いていく。


「これで良い。美乃さん膏薬を渡して下さい」


「先生包帯はしなくて良いんですか?」


「しなくて良い。朝と晩に膏薬を薄く塗りなさい。後五日程塗れば良い。治療は今日で終わりだ」


「もう来なくて良いんですか?」


「良いよ。だが、まだ左手で重い物を持ったりしてはだめだよ。傷口が開くかも知れない。気を付けるんだな」


「はい!先生ありがとうございます」


 男は嬉しそうだ。何度もお礼を言った。美乃に膏薬を渡されると、持ってきた風呂敷包みを解いた。


「奥様、先生に食べてもらって下さい。今朝仕入れた赤魚鯛の開きです。うまいですよ」


 奥様と呼ばれ、美乃は顔を赤くした。男は治療代を払うと帰っていった。そっと俊介を見た。


 俊介は聞こえたのか聞こえなかったのか、治療日誌に書付をしていた。美乃はその赤魚鯛を差し出すようにして、


「あのう、先生。今の患者さんに赤魚鯛をいただきました」


「そうですか、私は料理が出来ません。美乃さんと兄上で食べて下さい」


「いいえ、兄は今晩、往診先でご馳走になって来るそうです。ご一緒に食べていただけませんか?」


「いや、榊さんの留守の時は遠慮いたします」


「実は兄から、今夜は留守になるから物騒だ。佐久間さんに夕食を一緒に食べてもらえと言われております」


「わかりました。そう言うことなら遠慮なくいただきます」


 俊介はにこりともせずに言った。それは照れ隠しだった。


「ありがとうございます。よろしくお願いします」


 美乃は治療所の片づけを始めた。


「美乃さん、片づけは私一人で大丈夫です。急におなかが空いて来ました。食事をお作りいただけませんか?」


「はい、すぐにお支度をいたします」


 美乃は嬉しそうに答える。兄市之進に言われたのは昨夜のことである。嬉しくて、今朝のうちに準備をしていた。


 それでも、出来上がるまで半刻程かかった。


 得意の揚げ出し大根(ごま油で揚げその上に大根おろし山に乗せ、胡麻をひとふりして上から醤油をかけて食べる)


 他に里芋と人参の煮しめ、ほうれん草の白和え。そして赤魚鯛の開き。豆腐と葱と揚げの味噌汁。


 箱膳には乗り切れなかった。赤魚鯛が予定になかったのだろう。豪華な食事だった。


 俊介は、まず見た目に驚いた。半刻で良くここまでと驚いた。向かい合っての食事である。


 座ってみると互いの顔が合わせられず、目のやり場に困った。それでも俊介は感謝を込めて、


「いただきます」


 美乃も一緒に言ったが視線を合わせない。内心嬉しくてたまらない。しかし、味付けが心配だった。


 俊介は味噌汁を口にした。煮干しだしの効いたうまい味噌汁だった。思わず、


「うまい!」


 と口にした。次に揚げ出し大根。初めて食する。これがうまかった。口に入れるとごま油の香りが口いっぱいに広がり、歯触りはほっこりと感触が良い。


「うまい!」


 俊介の言葉に美乃は嬉しくなった。自分の食べるのを忘れてしまった。母仕込みの料理である。


 俊介は里芋と人参の煮しめを食べた。忘れていたおちかの味を思い出した。胸がきゅっと締め付けられた。


「どうかしましたか?」


 美乃が心配そうに聞く。


「いや、あまりに美味しいから考えてしまった。母上仕込みですか?」


 咄嗟に言い訳をし、無理に笑顔を作った。


「はい、そうです」


 美乃も合わせて微笑んだ。


                        つづく

次回は4月9日火曜日朝10時に掲載します