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      26.置手紙

 「俊介先生、どうかしましたか?」


 市之進が二度も名を呼んだが返事がない。薬研で薬草を細かく砕いていた。両手で一心に前後に動かしている。


(薬研=薬草を切ったり細かく砕く為の道具)


「あっ、はい!もう直ぐ出来ます」


「いや、急がなくて良いです。お願いします」


 市之進は患者の前では丁寧な言葉遣いをする。朝から俊介の様子がおかしい。時々手を止めて考え事をしている。


 市之進だけでなく美乃も気付いていた。美乃は心配だが聞くことは出来なかった。


 俊介はおちかの様子が気になっていた。これまでは、めったに化粧しないおちかが昨夕から化粧をしていた。


 昨夜は頬に涙。なぜ泣いていたのだろう。俊介は単純に、喜びの涙と思い違いをしていた。何かあったに違いない。


 おちかから身体を寄せて来たことも初めてだった。今までにないことだ。おちかはいつも嗜み深く受け身だった。


 思い出せば色々腑に落ちないことがある。俊介は心がざわざわと落ち着かなかった。早く帰りたかった。


「俊介先生。顔色が良くないな。昨夜睡眠不足だろう。研究はほどほどにしておかなければ、医者の不養生となる」


「ありがとうございます。夜更かしが過ぎたのかも知れません。御迷惑かけてすみません」


 朝起きた時、爽やかな目覚めだった。元気いっぱいで治療所へ来た。幸せな気持ちで仕事を始めたはずだった。


 薬研作業は単純である。両手で円盤を回しながら薬草を切り砕く。自然に無心になり心中におちかのことが占めた。


「俊介先生。最後の患者も終わった。今日は終わりにしよう。早く帰って休んでくれ」


「いえ、大丈夫です。寝不足なだけです。それに、暮れ6つまではいつ患者が来るかもわかりません」


「ははは、やっぱり寝不足だ。研究のし過ぎだ。たまには酒でも飲んで早く寝ることだ。さ、帰った!帰った!」


 市之進に言われ、本心は一刻も早く帰りたかった。しかし、心を抑えた。しばらくの後、暮れ6つの鐘が鳴った。


 俊介は治療所をを後にした。途中から急ぎ足になった。なぜか胸騒ぎがしてならない。


 長屋に、やっと帰り着いた。引き戸を開けながら、


「ただいま!」


 おちかの返事がない、お帰りなさいの声がない。いつもの場所に箱膳があり、大きな布巾がかけてあった。


 いつもなら、おちかがにっこり笑って手拭いを渡してくれる。部屋ががらーんとしている。部屋はもう薄暗い。


『そうか、急用が出来て出かけたのだな。そうだそうに違いない。だから夕飯は用意してある。今日は銭湯は止めだ』


 呟きながら箱膳の前に座った。膳の横に巻紙が置いてある。手紙?身体が急に寒くなった。手に取って開いた。


 読めない。見えるはずが無い。部屋は薄暗い。行灯を付けた。その行灯の下で見た。長い巻紙だった。


〝俊介様へ


  短い間でしたが、大変お世話になりました。


 実は私には郷里がございます。偽りを申しましたことお詫び申し上げます。昨日、実家の店の者が迎えに来ました。


 聞けば兄とその嫁が相次いで亡くなりました。前橋の田舎ではありますが三代続いた呉服屋です。


 唯一残された血筋の私が、後を継ぐことになりました。運命とは言え、ご胸次お察し下さればと思います。


 幸せの淵からどん底へ突き落されたような気持です。昨日から俊介様にお話しようかどうしようかと悩みました。


 私は心の弱い女です。お話すれば心変わりするやも知れません。しかし、それは出来ないことです。


 俊介様にはご迷惑だったでしょうが、私は夫婦になったような心持でした。勝手に錯覚に陥っていました。


 本来なら、お武家の俊介様と夫婦とは考えもつかない事でした。まして、6歳も年上です。夢のような日々でした。


 夢のような幸せをありがとうございました。心からお礼申し上げます。


 神様がこれからの運命の為に、ご褒美を下さったのかも知れません。


 俊介様、季節は春とは言えまだまだ寒うございます。風邪などひかれませぬよう、お身体お大事下さいませ。


 お医者様の道。さらなるご発展をお祈りいたします。


 私の冷たい足を両足で温めて頂きました事、一生の思い出です。色々お世話になりました心からお礼申し上げます。


 なお、この部屋は年内の支払いが終えております。取り急ぎにつきまして、荷物等はこのままにさせて頂きます。


 最後に厚かましいお願いでございますが、ご処分をお願い出来ればと思います。どうぞよろしくお願いいたします。


 思いつくままに書き連ねましたが、本当に幸せな日々を過ごさせて頂きました。心からお礼申し上げます〟


 長い手紙だった。ところどころの字が滲んでいた。


 俊介は読み終わると、両の拳を握りしめ涙を溢れるままに声を押さえて泣いた。


 これからどう生きていくのだ。これからどうするのだ。おちかのいない人生が来るとは思いもしなかった。


「おちか、好きだった。何も言わなかったが好きだった」


 独り言に呟いた。繰り返し、繰り返し呟いた。


                        つづく

次回は4月2日火曜日朝10時に掲載します