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     24、闇夜

 「先生、湯加減はいかがですか?」


 湯殿の外からおよねが声をかけた。


「丁度良いね。ありがとう」


 松崎は両手両足を樽から出して、身体だけを湯に沈めて気持ち良さそうにうとうとと眠りかけた。


「松崎様、浴衣を入口の前に置いて置きます」


 おつるの声である。松崎ははっと目覚め、


「何だ!何か言ったか?」


「浴衣を、お持ちしました」


「それは、ありがたい。中に入れてくれ」


 おつるはどきどきしながら、引き戸を開け板敷の上に置いた。俯いたままである。顔は真っ赤になった。


 その時、松崎はざばっと桶の中で立ち上がった。色白だが引き締まった上半身。湯をぱしっと弾いている。


 おつるはその音に驚いて咄嗟に前を見た。裸の上半身が目に入り、身体がきゅっと引き締まった。


「ここに置いて置きます」


 それだけ言うと引き戸を閉めて自分の部屋に戻った。座ると松崎の裸の上半身が眼に焼き付いて離れない。


 こんなことは初めてである。ぼーっと座ったままでいた。


「女将さん、仕出しが届きました。どこに置きましょうか?」


 おつるは、はっと我に返り、


「先生の部屋に持って行ってね。それからお酒を燗をしてね。それは私が持って行きます」


 仕出し料理は品数が多く、箱膳二つに並べられた。程なくして、松崎が風呂から上がり部屋に入った。


 見計らうように、おつるが燗酒を持って入って行った。松崎は膳の前に座っていた。


「お疲れさまでした。お酒のご用意を致しました」


「すまないね。膳が用意されているから、卑しくも食べようとしたところだった。ははは」


 おつるは徳利の入った盆を下に置き、徳利を手にして松崎に勧めた。松崎は膳の上の盃を手にして受けた。


「うまい!五臓六腑に染み渡るとはこのことだ」


「どうぞ」


 おつるはにっこり笑って酒を注ぐ。


「ありがとう、後は手酌でやる。女中を雇ったのか?」


「はい、およねと言います。この春までここで働いておりました」


「それは気心が知れて良いね。ところで、吉松はどうだ?市松の旦那に、おつるさんによろしくお願いしますと言伝を貰って来た」


「はい、機転が利き良く動きます。手代見習いとして働いてもらっています」


「ほう!手代見習いか。旦那が聞いたら喜ぶだろうな」


「松崎様、お帰りいただいて嬉しゅうございます。しばらくご滞在いただけますか?」


「そのつもりだ。明日から何をしようか?」


「いいえ、何もしていただかなくて結構です。山形屋にいていただくだけで良いのです」


「何を馬鹿なことを言う。明日から、又、帳場に座っていようと思うがどうだ?」


「ありがとうございます。実はお得意様回りをしたいと思っておりましたが、帳場を開けるわけにもいかず困っておりました」


「そうか、では丁度良いではないか。そうしよう」


 おつるは松崎に帳場に座って貰いたかった。しかし、自分からは言えなかった。その思いがけない申し出に喜んだ。


「では、江戸からお戻り頂いたばかりです。明日はゆっくりお休みしていただいて、明後日からお願い致します」


「疲れてなどいない。明日からで良い」


「わかりました。それでは申し訳ありませんが、よろしくお願い致します」


 おつるは嬉しそうだ。徳利を持って勧める。


「いや、もういい。腹が減った。飯にしてくれ」


 おつるは台所へ下がって行った。およねが控えていた。


「お酒、燗の用意が出来ております」


「いいえ、ご飯にしてね」


 その時、吉松が入って来た。


「女将さん、終わりました」


 店を閉めてから四半時は、片付けや後始末に時間がかかる。それは吉松の仕事だ。その吉松が浮かぬ顔をしている。


「どうしました?」


「はい、裏木戸をこじ開けようとした跡があります」


「裏木戸?脇木戸ではなく?」


「はい、裏木戸です。新しいこじり跡です。一昨日は付いていませんでしたので昨日だと思います」


「見てみましょう」


 おつると吉松は裏木戸に行った。引き戸である。戸に付いた桟を横に滑らし、木戸柱へ入れる仕組みである。


 その桟をこじってずらそうとしたらしい。こじった後が真新しい傷になっている。


「泥棒に入ろうとしたのかしら…」


「違うと思います。泥棒ならこじったぐらいであきらめません。塀を乗り越えたと思います」


「そうね、吉松の言うとおりだわ。今日から、戸締りは特に気を付けてね」


 と言いながらおつるは思い当っていた。吉蔵に違いないと思った。


「さあ、お腹空いたでしょう。夕食にしましょう」


 台所に戻ると、


「女将さん、先生にご飯お出ししました」


「ありがとう。それじゃ、私たちも食べましょう」


 と言いながら自分が持って行くつもりだったから、がっかりした。


「先に食べててね。ちょっ話してくる」


 おつるは松崎の部屋に入って行った。


「はい、お代わりどうぞ!」


「おっ、丁度良いところだ。見てたのか?」


「はい、襖の隙間から見てました」


「そうか、道理で隙間風が入ってくると思った。おつるさん、食事は?」


「はい、後でいただきます」


「おつるさん、ここで一緒に食べよう」


「いえ、みんなと一緒ですから」


「みんな?」


「はい、およねと吉松です」


「そうか、私も一緒ではまずいか?」


「いいえ、松崎様はお部屋でお召し上がり下さい」


「それは味気ないな。一緒にしてくれ」


「台所は板張りですよ」


「そんなのは構わない。一人で食べるのは、旨いものも不味くなる」


「わかりました。では明日の朝からそう致します。食事が出来ましたら呼びに伺います」


「うん、よろしく頼む」


 この夜、墨を塗ったような曇り空。月は隠れ、闇夜である。吉蔵は縄梯子を用意し、夜が更けるのを待っていた。


                        つづく

次回は11月26日朝10時に掲載します