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    23、おつるの涙

 「あっ、先生!」


 吉松は店の前に立ち、品台につかず離れずに客を誘導していた。閉店に近い夕7つ(16時)


「先生のお帰りです!」


 吉松は店の中へ向かって大声で叫んだ。真っ先におつるが出て来た。もう涙目であった。帰ってこないと思っていた。


 手代二人も続いて出て来た。店前にいた客は何事だろうと、手にした反物を置いて振り向いた。


 菅笠を被っているが、澄んだ切れ長の目に一文字の眉。鼻筋通った面長の顔。すらりと着流した黒の単衣。


 両刀落とし差しの姿は、江戸からの旅姿とは思えない。ふらりと街中を歩いて来たように見える。


 今朝、松崎は上板橋村を出て大和田まで来た。立ち止まると長刀を背中に斜めに結び、着物を腰に端折り走り始めた。


 おつるに会えると思うと胸が高鳴った。大和田を過ぎると川越がもう近い。おつるの顔が浮かび心が堪らなくなった。


 大井を過ぎて城下に入った。小川を見つけると顔を洗い汗づくの体を拭った。着物の端折りを下ろし埃も払い落した。


 両刀も落とし差しに改めた。普通に歩くつもりが、自然と急ぎ足になっていた。もうすぐ店である。


 店のすぐ前に来た。胸の高鳴りが大きくなった。生まれてこのかた、このような気持ちになったのは初めてである。


「松崎様、お帰りなさいませ」


 おつるはこぼれる涙を抑えもせず頭を下げた。


「どうした?何かあったか?」


 思わず松崎はおつるの両肩を掴んだ。


「いいえ、何にもありません。嬉しいのです」


「嬉しい?」


「もう、お戻りにならないのかと思っていました」


「……」


 松崎は答えに詰まった。川越を出る時、戻るつもりはなかった。だから、野暮用で江戸へ帰るとしか言わなかった。


 江戸に着いたその夜、おつるの悲し気な顔が浮かんでは消え、せつなくて寂しくて眠れなかった。


 野暮用を済ませた後、はっきりわかった。おつるに恋をしていたのだ。


「どうぞ、お入りください」


 おつるは脇木戸開け、先に入りながら言う。そのまま通用口先の玄関に入り、およねにすすぎの用意を言いつけた。


 そのすすぎはおつるがした。およねは茫然と立っていた。


「おつるさん、すまないね」


 おつるは慈しむように指一本一本まで丁寧に洗った。


 松崎は胸の鼓動の音が、おつるに聞こえないかと心配した。頬が赤く染まっていた。


 二人はおつるの部屋へ入って行った。およねはすすぎ桶を片付けると、すぐにお茶の用意をした。


 およねがお茶を持って行くと、おつるはいつもの位置に座らず、二人は並ぶように座っていた。


「およね、風呂を直ぐに用意してね。それと、一心(鰻屋)に仕出しを頼んでね」


 (当時風呂は銭湯が主であったが、上級武士や大店では3畳ほどの湯殿を作った。中には直径1m程の湯桶があり、そこに湯を張り中へ入った)


 おつるは障子際に座わり、松崎はその奥に座っていた。およねが下がると、にっこり笑って、


「いない間に何事も無くて良かった」


「いいえ、ありました。店前の品台を、台ごとひっくり返されました」


「なに!あったのか?酷いことをする。誰だそいつは?」


「わかりません。そのまま逃げてしまいました。吉松が追いかけたのですが、見失いました。頬かむりをしていたそうです」


「丸源のしわざではないな。丸源なら逃げない。それに源蔵とは話をつけてある」


「はい、私もそう思いました。それに、同業でもないと思っています。だから、不安なのです」


「吉蔵だな」


「えっ、吉蔵ですか?」


「そうだ。逃げきれず、隠れていたのだろう。借金が返されたと知り、安心して出て来たのだ」


「どこまでも卑劣な男ですね」


「馬鹿な奴だ。借金が返えされても、博徒が逃げた男をそのままに捨て置くわけがない。やくざの面子に関わることだ」


「どうしたらいいでしょうか?」


「今日から戸締りに気を付けることだ。しかし、私がいる。何も心配することはない」


「ありがとうございます。よろしくお願いします」


「そうだ、部屋はこの前と同じで良いのか?」


「もちろんです。そのままにしてあります」


「では、部屋に行く」


「どうぞ、ゆっくりなさって下さい。風呂ももうすぐ用意出来ます。出来ましたらお知らせに伺います」


「よろしく頼む」


 おつるは、松崎が部屋を出て行くと帳場へ向かった。手代二人がすぐに寄って来た。


「女将さん、良かったですね。先生はもうお戻りにならないのかと心配しておりました」


 治助が嬉しそうに言う。治助もほっとしたようだ。


「今日は店内で2反売れました。お客様が心配していらっしゃいました。ありがたいことです」


「再開して初めてですね。治助の力です。これからもよろしくお願いね」


「それから、品台では5反も売れました。再開して今日が1番売れました。明日も頑張ります」


「ご苦労様でした。今日はこれでお店を閉めて下さい」


 おつるに明るい希望が湧いて来た。

次回は11月19日火曜日10時に掲載します