Shopping Cart
Your Cart is Empty
Quantity:
Subtotal
Taxes
Shipping
Total
There was an error with PayPalClick here to try again
CelebrateThank you for your business!You should be receiving an order confirmation from Paypal shortly.Exit Shopping Cart

       23、女ごころ

 お雪は後ろ手で閉めることなく、向き直って閉めた。


「上がって下さい」


 静かな声音だ。言葉につられるように、夢遊病者のごとく上がって座った。


 『昨夜は間違いを起こした。許して欲しい。ここには越したばかりだが出て行く』きっとそう言われるんだわ。


 辺見は沈痛な面持ちで、中央に座っている。お雪はその前に、悲しさと不安をいっぱいにしてよろよろと座った。


「お雪さん。結婚して下さい」


 辺見が突然両手を付いて頭を下げる。お雪には辺見が何を言っているのかわからなかった。茫然となった。


 返事が無い。少しは自分に気持ちがあると思っていた。自惚れだった。頭が真っ白になった。頭を上げられない。


 お雪はその言葉をはんすうして考えた。結婚?何を言っているのかしら。お侍が頭を下げたままである。申し訳なく思い。


「どうぞ、頭をお上げ下さい。私などになさることではありません」


 辺見は頭をゆっくり上げた。お雪は結婚など考えているはずがない。相手に断りの仕事を依頼されたぐらいだ。


「昨夜は、大きな過ちを犯してしまった。申し訳けない。何としても償うつもりです。何なりと言って欲しい」


 やっとわかったわ。したくもない結婚をして欲しいなんて、償いのつもりだったのね。悲しくなった。


「いいえ、何のことですか?私、昨夜のことは疲れていて何も覚えていません」


「・・・・・」


 辺見は言葉を無くした。女は初めてでは無いが、初めて好きになった女である。身も心も魅惑されていた。


 その女を強引に抱いてしまった。日頃の親切が自分への好意からと思い、大きな過ちを犯してしまった。


 結婚などと甘い夢を持った。お雪と一緒に暮らせたらどんなにか幸せだろうと、夫婦生活をも思い描いてもいた。


 それは全て、お雪が自分へ好意を持っていてくれてるとの一方的な思いからだった。全てが消えてしまった。


「覚えていない?昨夜のことを・・・」


「昨夜はお送りいただきありがとうございました」


 お雪は下を向いたまま独り言のように言う。


 その言い方は悲しそうに聞こえた。辺見は悟った。お雪は覚えている。なぜ嘘をつく。


「お雪さん、本当に何も覚えていないのか?」


「何かあったのでしょうか?」


「いや、何でもない」


 辺見は立ち上がると、手ぬぐいを持って出ていった。その後ろ姿に明るい声で、


「お食事が出来ました。今、用意いたします」


 お雪は声とは裏腹に、ぽろりと涙をこぼした。


 この日以来、辺見は店に来ても最後まで残ることは無く帰って行った。5日が過ぎた。


 酒を飲み飯食うだけの店。だんだんお雪の顔を見ると寂しくなってきた。


 辺見は、お雪との結婚を望んだ二人を諦めさせるように仕向けた。その報いを受けたのかも知れない。


 お雪は毎日が辛かった。辺見が卑怯な手を使う人とは思いもしなかった。女が身体を許すとはどんな気持ちでいるのかわかりますか。


 結婚してくれなんて、あまりにも見え透いたことを。腹が立つより悲しくなった。


 辺見には嘘はなかった。真摯に結婚を望んだ。武士でいる時は全てに縛られていた。結婚も当然である。


 武士は武士の家系からしか嫁を迎えられなかった。今は浪人だ。何の束縛もない。町人と同じである。お雪はそれを知らなかった。


 今日は護り屋の仕事だ。酉の刻(18時)、札差に出向いた。亥の刻(22時)ぐらいまでは帰れない。店には行けなかった。


 お雪は宵5つ(20時)を過ぎたころから、そわそわしてきた。流石に注文は間違えないが動作が遅い。


「お雪、何か心配事か?」


 見兼ねた竹蔵が話しかける。


「先生遅いですね。何かあったのでしょうか?」


「うん、そう言えば遅いな。心配か?この頃、先生のお帰りも早いし何かあったかな」


 竹蔵も心配そうに言う。


「さあ、わかりません」


「お仕事がお忙しいのだろう。帰りに夜食のおにぎりを作って置く、寄ってみてくれ」


 辺見は来なかった。店を閉め片付けを終わると、


「お雪、これ先生に届けてくれ。夜食のおにぎりだ」


 めざしの焼いたものが添えてあった。


「おっと、これも持って行ってくれ」


 5合徳利に入った酒である。お雪は両手をいっぱいにして辺見の長屋を訪れた。


 真っ暗であった。留守のようだ。それでも小さく声を掛けて引き戸を開けた。


 (当時の長屋は殆ど戸締りをしなかった)


 辺見は帰っていない。落胆と不安で全身から血の気が抜けるような気がした。


 立っていられなくて、夜食と酒を入口近くの座敷に置くと、そこに座り込んでしまった。


 そのまま半刻が過ぎた。辺見は帰って来ない。お雪は落胆と悲しさにゆっくり立ち上がった。


 その時、引き戸が開いた。


                      つづく

続きは8月25日火曜日朝10時に掲載します