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     19、沈着冷静

 お雪は朝になるのが待ち遠しかった。いつもより早く起き出した。暁7つ半(5時)を過ぎたばかりである。


 化粧こそしないが、丁寧に洗った顔は抜けるように白い。髪を整え口に紅を引いた。


 心がうきうきして何だか嬉しい。こんな朝を迎えたのは初めてである。食事の支度も何もかもが嬉しい。


 食事の支度全てが整った。6つ半(7時)になるのが待ち遠しかった。


「おはようございます」


 引き戸の前で、辺りにはばかるような小さな声で言う。返事が無い。寝ているのは承知である。そっと開けた。


 ふっと男の匂いがした。お雪は勝手に上がって行った。突き当りの障子をそっと開けた。さっと風が通り抜けた。


 辺見は、お雪が引き戸の前で声を掛けた時から気付いていた。嬉しくて寝たふりをしていた。


 枕元にお雪が寄って来て座った。


「おはようございます」


 お雪の息が辺見の頬にかかった。それほど顔を寄せて声を掛けた。辺見は寝たふりを続けた。


「起きて下さい。お食事ですよ」


 辺見は薄目を開けて見た。真近にお雪の顔がある。くるりと仰向けになり、


「おはよう。今何刻だ?」


「6つ半ですよ」


「まだ早いな。もう少し寝る」


 辺見は言いながら、くるりとお雪に背を向けて横向きになる。お雪は咄嗟に両の手で仰向けに戻そうとする。


「駄目ですよ。起きて下さい」


 辺見は自分から仰向けになった。お雪は引き込まれておいかぶさってしまった。お雪は慌てて身体を離した。


 顔を赤くして、


「顔を洗って来て下さい。お食事ですよ」


 照れ隠しに言葉に詰まりながら言った。立ち上がると、用意した朝の膳を自室に取りに出て行った。


 辺見は昨夜、深夜過ぎても眠れなかった。お雪の唇が忘れられない。おいそれたことをしてしまった。


 にも拘わらず、お雪は避けることなく受けてくれた。もしかして、お雪に自分への気持ちがあるのだろうか。


 今だってそうだ。偶然とは言え抱き合ったようになった。一瞬のことで何も考えが及ばなかったが抱きしめれば良かった。抱きしめたかった。


 好きだ。お雪さん好きだ。はっきり言葉で思った。自分の心のもやもやが消えた。


 辺見の頭の中には、お雪の相手を諦めさせるのが仕事。仕事を外れて横恋慕するとは情けないと思っていた。


 しかし、状況は思わぬことになっていた。お雪の相手をを断るために、許嫁であると公言していた。


 好きだ。お雪さん好きだ。一度言葉にしてからの頭の中は、好きで好きでせつなくてせつなくて堪らなくなった。


「あら、まだそのままですか?」


 お雪が膳を抱えながら入って来た。にっこり笑ったその顔が綺麗だ。どきどきする。


「ごめん、今洗ってくる」


 井戸端で顔を洗いながら胸がときめいていた。ふと見れば寝起きの自分の姿が恥ずかしくなった。


 単衣着物を改め直し、髪を手で撫でつけるように抑えて部屋に戻って行った。


 引き戸を開けると、味噌汁の良い匂いが漂ってきた。お腹がぐんと空いて来た。


 膳の前に座ると、直ぐにご飯と味噌汁がよそわれた。味噌汁から湯気が立ち上っている。


 膳には、鯵の姿煮ときんぴらごぼうに炒り豆腐、漬物に大根と人参のぬか漬け4品が並んでいた。


 かまどにはいつの間にか火が起こされ、味噌汁の鍋が掛かっている。鍋から良い匂いが漂っている。


 うまい!辺見はたちまちにご飯と味噌汁をお代わりした。二杯目は落ち着いて食べ始めた。


 ふと、お雪を見て気付いた。


「あれ?お雪さん、ご飯は食べた?」


 今頃のんきに聞く。


「いいえ、まだです」


「それは悪かった。一緒に食べよう。気付かなくてごめんね」


 お雪はその様子を嬉しそうに見ていた。微笑みながら、


「自分のところに用意してありますから、大丈夫ですよ」


「いつの間にか、かまどに火まで起こしてある。すごい早業だ。大変な世話を掛けたね」


「いいえ、部屋の火を移しただけです」


「そんな危ないことをしては駄目だ。火事にでもなったら大変だ。始めからこのかまどを使って欲しい。そして一緒に食事もして欲しい」


「はい、では明日からそうします」


 嬉しそうに、こくんと頷いて即答した。


 お雪は、辺見と一緒に食事が出来たらといつも心に思い願っていた。それを辺見から求められたのである。


 辺見も深い意味など考えていなかった。お雪がにっこり笑って返事をしてくれたので、心が飛び跳ねた。


 辺見は嬉しくて世の中の喜びを独り占めしたような気持になった。沈着冷静な日頃の辺見はそこにはいなかった。


                      つづく

次回は7月28日火曜日朝10時に掲載します