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19、心の花

 坂西はお菊を見た。目の前にして心がときめいている。こんな気持ちは初めてだ。思わずお菊の言葉を否定した。


「確かに綺麗な人だが、それだけだ」


「それだけとはどう言うことですか?」


 お菊は気になって仕方がない。琴乃は芸者の中でも群を抜いて美人だった。鈴乃もその一人であった。


「それだけだ。意味は無い」


 意味は無いと言われてもお菊の心はさざ波が立っていた。


「また行くんでしょう」


「行くはずがないよ。分不相応だ


「そんなことありません。でも、ここを忘れないで下さいね」


 私、待ってますと言いたかったが、ほかの客の手前言えなかった。


 坂西はゆっくりと咀嚼するかのように食べた。いつの間にか、客は一人去り二人去りと帰っていった。お菊が片付けていると、


「お菊さん、提灯消してくれ。仕舞にしよう」


 板場から辰吉が声をかけた。お菊が提灯を持って店の中へ入って来た。


「お菊さん、先生にはゆっくりして貰いなせえ。あっしは先に帰る。後は頼むね」


 いつもは、辰吉は先に帰ったことはない。お菊はどきりとした。


 辰吉は裏口から出て行った。急に胸がどきどきしてきた。気になって坂西を見ると、目が合った。


「身共が最後のようだな。すまぬがお茶を所望できないか」


 物言いに、酔った気配は無くいつもの坂西に戻っていた。

 

「はい、今お持ちします」


 板場に入って行くお菊を追うように見ながら、世の中には似てる人がいるものだと、つたやの女将の顔を思い出していた。


 板場では火を落としてあったが、鉄瓶の湯は沸いたばかりであった。お菊は二つの湯呑にお茶を淹れて持って行った。


 どうぞと坂西の前に出しながら、


「私もここで飲んで良いかしら?」


「良いとも、ここに座りなさい」


 坂西は少し左にずれて、そこへ手を添えた。お菊は嬉しそうに座った。


「聞いてもいいかしら?」


「いきなり、どうした」


「朝ご飯はどうしていらっしゃるのですか?」


「道場で飯が出る」


「お昼はどうなさってます?」


「おにぎりが出る。どうしてだ?」


「どうしていらっしゃるのかと思って…」


「道場に住むようになって、食事の心配は無くなった。ただ、晩飯だけは無い。それは配慮からだ」


「配慮ですか?」


「酒を飲む者もいる。自由にさせたいからだね。ありがたいことだ。おかげでここで酒が飲める」


「今日はお飲みになってませんよ。フフ」


「すまない。師範代に誘われては断れない」


「あら、人の所為になさるのですか、坂西さんらしくないですね」


「あれ?そうだ。身共が謝ることは無いのだ。変だな」


 坂西は心が読まれたような気がした。


「お酒飲みます?」


「良いのか?店閉めたのだろう」


「実は私、先生に相談がありますの。お酒用意して来ますね」


 火は落としてある。冷酒を湯呑に入れて持って来た。


「おっ、良いね。迎え酒だ。ところで、相談て何だ」


「芸者に戻って欲しいと言われているの。どうしたら良いかしら?」


「駄目だ、駄目だ!」


 咄嗟に声が大きくなった。お菊は驚いて坂西を見つめた。


「どうしてですか?」


 嬉しかった。そう言って欲しかった。

 

 坂西は目を伏せて、湯呑の酒をごくりと飲んだ。


「どうしてですか?教えて下さい」


 返答の無い坂口に重ねて聞いた。坂西はここにいて欲しいからだと言えなかった。湯呑を下に置くと、


「辞めるには理由があったのだろう。それはどうなったのかな?」


「先生、私が芸者をしていたことご存じだったのですか?」


「店の皆が話していた。お菊さんは綺麗だからね」


「そんなことおっしゃって、本気にしますよ」


「本気とはどう言うこと?」


「知りません!」


「わかった。それより、理由を知りたいな」


 お菊は立ち上がると、


「お酒、お代わり持って来ますね」


 板場で酒を湯呑に注ぎながら、お菊は話すかどうか決め兼ねていた。そして、自分の分も湯呑に注ぎ持って行った。話そうと決めた。


「実は、先ほどのつたやは姉の店です。色々わけがありまして、姉とは疎遠になっております。そのつたやの経営が思わしくないようで…」


「そうは見えなかった。繁盛していると思っていたが…」


「旦那様が昨年お亡くなりになってから、お客様が極端に少なくなりました。板前も仲居も次から次へと辞めてしまったようです」


「姉さんが経営しているのか?」


「はい、どうにもならないようです。わずかの常連客が残っているだけのようです。それもいつまで続くか…」


「ふーん、姉さんは綺麗な人だけど、経営には向かないのかな」


「上手が言えないのです。それにその綺麗さが仇になっているようです。お客様は冷たく邪険にされたように思うようです」


「それでどうしようというのかな?」


「芸者に戻って、つたやでお客様をもてなしたいと思います」


「それをお姉さんは許すと思うかな?それに芸者に戻ると、つたやだけに出るということは出来ないだろう」


「そうでした。姉が許すわけありません。実は芸者を辞めたのは姉の勧めもあったからです。旦那様が亡くなった後、姉がつたやを一緒にやろうと言って来ました。元々、芸者を辞めさせたかったようです」


「それがどうして蕎麦屋に勤めることになった?」


「お米ちゃんが辞めた後、竹蔵さんに困ったと相談を受けた。太吉さんのことも知っていただけに、二人へのはなむけのつもりでした。竹蔵さんは、まさかに私が芸者を辞めて来てくれるとは、夢にも思わなかったようです。誰かを紹介してくれると思っていたらしい」


「見共も驚いた。世の中にこんなに美しい人がいるとは思いもしなかった」


「あら、嘘ばっかり。私のこと、いつも無視していましたよ」


「それは違う。美しすぎて顔が見れず、わざと邪険にしていたんだ」


「何ぜですか?」


「わからない。自然とそうなった」


「私、嫌われているのだと思ってました。私に原因があることはわかってます。それが何なのかわかりません」


「嫌うなんてことは無い。一目で好きになった」


 坂西の後の言葉は俯いて小さくなった。


「えっ、今何とおっしゃいました?」


「いや、何でもない。お酒お代わりくれるか」


「はい」


 お菊は嬉しかった。しっかり耳に聞こえていた。心がぱっと花が咲いたように嬉しかった。


 坂西の身体を再び酒が身体をまわり始めた。生気が蘇って来た。


「お菊さん、長居してすまなかった。これを飲んだら帰る」


「あら、私も一緒に頂こうと思いましたのに…」


 さっき自分用に持って来た湯呑を見ながら、恨めしそうに言う。


「あっ、それは悪かった。一緒に飲もう」


「うれしい!それでは徳利も用意してきます」


 お菊は板場から五合徳利を持って来た。そして、坂西の横に座った。お菊の甘酸っぱい匂いが坂西の鼻をかすめた。心がきゅっと締まった。


 並んだ二人は、互いに何か話そうと思うが思いつかない。坂西は顔を見合わせることなく真っすぐ前を向いている。心が落ち着かない。


「先生、こっち向いて下さい。私が嫌ですか?」


 お菊は酒に任せて思いっきりなことを言う。坂西は返事が出来ない。   


「そろそろ帰るとするか」


「先生、それでは送って下さい」


「良いよ、送って行こう。この近くだったか?」


「あら、先生、遠くだったらだめなんですか?」


 帰ると言うから、なぜか悔しくて絡んでみたくなった。


 裏戸から二人は外に出た。身体がしなっていたお菊は、外に出るとしゃきっとした。誰が見ているかわからない。


 坂西はお菊の言うとおりに道筋を歩いた。6町(650m)ほど歩くと長屋に着いた。3番目の部屋だった。


「先生、ありがとうございました」


 坂西はうんと返事すると来た道を戻って行った。戸を閉めると、お菊は悲しくなった。お寄り下さいと言えなかった。


 続き20回は4月26日火曜日朝10時に掲載します