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18、待ち人来たる

 「お菊さん、お菊さん、するめ焼けたよ」


 辰吉が呼びかけた。お菊は、はっと気が付いた。柱に片手をついて入り口を見ていた。香ばしいするめの匂いが漂っている。 


「ごめんなさい」


 急に明るい顔をして運んで行った。辰吉はそのわけが痛いほどわかるが触れないようにしている。


 客は4人。1人は酒を終えて飯を食べていた。するめを届けると酒を追加注文された。後4半刻もすれば亥の刻(22時)閉店である。


「お菊さん何だか元気ないね。具合でも悪いのか?」


 するめ注文の客である。大工で1刻近く飲み続けている。一升近く飲んでいるが平然と飲んでいる。


「留めさん、これで10本目よ何かあったの?」


「俺が聞いてんだよ。具合悪いんだろう?」


「何でもないわよ。今夜は暇だから、考え事してたのよ」


「考えることないよ。こんな寒い夜は、みんな布団かぶって寝てんだよ」


「そうよね。心配しちゃった」


 その時、入り口の引き戸が滑るように開いた。引き戸が開きにくいので、昼間大工の常さんが直してくれた。


 お菊の顔がぱっと輝いた。


「あっ、先生!どうしたのですか、こんなに遅く」


 坂西が無言で入って来た。顔が赤く染まっている。いつもの席に座った。お菊は気づかぬふりをして、


「こんばんは、何になさいます」


「うん、一本つけてくれ。それとぬか漬けを頼む」


「はい」


 お菊は何も言わなかった。来てくれたことが嬉しかった。板場に入ると辰吉はほっとしたような顔で、


「酒は燗するよ。ぬか漬け出して」


 お菊は板場の隅の大きな壺から、きゅうりのぬか漬けを出して来た。嬉しそうなお菊を見て、辰吉は見ないふりをしている。


 さっと洗い、包丁を入れて皿に盛った。きゅうりは艶艶している。坂西の希望で大根と人参は盛らない。きゅうりのみである。


 燗酒とぬか漬けを坂西の前に出した。坂西は俯いたままである。お菊は覗き込むようにした。


「先生、酔ってるんじゃないか?」


 留が余計なことを言う。お菊は板場に引き返して、湯飲みに水を入れて持って来た。


「先生、お水どうぞ」


「すまぬ。すまぬ。遅くなってしまった。ここに来ないと落ち着かないものでな」


「あら、先生嬉しいことおっしゃって」


「お菊さん、俺もそうだよ。嬉しくないかい」


 留は酔っていることを言いことに、絡むように言う。お菊は坂西のことしか頭にない。坂西は湯飲みの水を一気に飲んだ。


「先生、お替り持ってきますね」


 お菊は嬉しそうだ。身体中から喜びが溢れている。  


2月9日掲載が更に遅くなり申し訳ありません。

「どうぞ、大分お飲みになったようね」


 水のお代わりを出しながら、ちょっぴり皮肉を込めて言う。


「お菊さん、何も食べていないんだ。めしを頼む」


「あら、それは大変。直ぐ作りますね」


 つたやでは珍しい料理の数々が出たが、坂西は殆ど箸を付けなかった。お菊はわけも聞かずに板場へ急ぎ戻った。辰吉も協力した。


 鯖の味噌煮と野菜の煮物に牛蒡の金平、胡瓜のぬか漬けにめしと熱いみそ汁。坂西の目の前に並んだ。


「今、厚焼き玉子出来ますからね」


「うん」


 と言うなり、熱い味噌汁をずずっと吸い、めしに鯖の味噌煮。続いて味噌汁、めしに煮物とかき込むように繰り返す。


「卵焼き出来ましたよ」


 お菊が持って来た時は、おかずはほぼ無くなり、めしのお代わりを言われた。余程お腹が空いていたのだろう。


 お菊は嬉しくなり、めしのお代わりと鯖の味噌煮を一緒に出した。坂西は少しお腹が落ち着いたようだ。


「ありがとう。鯖の味噌煮はうまいね。大好きなんだ」


「先生の大好物わかってますよ。ところで、お酒どこでお飲みになったんですか?」


「うん、誘われてつたやに行って来た。しかし、食べるものが無くてね」


「・・・・・・・」


 お菊は無言になった。つたやはお菊の姉の店である。


「つたやは江戸でも有名らしいね。しかし、味がどうもね。はっきりしなくて殆ど食べられなかった」


「そうでしたか、お一人で?」


「いや、師範代勝三さんのお供でね。立派な店でね。何だか気おくれがしたよ」


「そんな大層な店ではないのですけどね。古いですからね」


「お菊さん、知っているのか?」


「いいえ、ただ、古い店だから名前だけは」


 姉の店だとは言えなかった。 


「芸者とは名に聞いたことがあったが、初めて見た。綺麗だね。酌をしてくれたよ」


「芸者を呼んだのですか?」


「勝三さんが呼んだ。琴乃さんと言う馴染みだそうだ。知ってる?」


「いいえ、知りません…」


 お菊は知っていた。自分が芸者であったことを坂西は知らないと思っていた。


 店の客全員が知っていた。始めは、蕎麦屋には場違いの美貌と身のこなし、あてずっぽうに芸者では無いかと噂していた。


 それがある日、置屋に出入りする大工が聞きつけて来た。しかし、それは悲しい話だった。客はお菊を気遣い、公然の秘密となっていた。


「綺麗な人だった。江戸は綺麗な人が多い」


 言いながら、女将を思い出していた。品の良い人で慈愛に満ちた顔をしていた。どこかで見た気がした。直ぐにお菊と気がついた。


 お菊を思うと気持ちが堪らなくなった。会いたくて胸がいっぱいになり、出された料理は殆ど手を付けなかった。


 鈴乃に酌をされるまま次から次へと飲んだ。鈴乃が色々話しかけてるが、うわの空で遅れて返事をする。


 勝三は坂西が料理に殆ど手を付けず、鈴乃に酌をされても下を向いたまま生返事をしている。連れて来たのを申し訳ないと思い、


「坂西さん、そろそろお開きにしましょう」


「師範代、本日はありがとうございました。それでは、不調法ですが、身共、寄るところがございまして先に失礼致します」


 坂西はつたやを出ると蕎麦屋へ一直線に向かった。今、お菊を目の前にしている。お菊が答えた。


「良かったですね。綺麗な人にお会い出来て…」

                           つづく

続き19回は3月1日朝10時に掲載します