Shopping Cart
Your Cart is Empty
Quantity:
Subtotal
Taxes
Shipping
Total
There was an error with PayPalClick here to try again
CelebrateThank you for your business!You should be receiving an order confirmation from Paypal shortly.Exit Shopping Cart

  16、二度目の引越し

 きゅうりに針生姜を利かせた酢の物は、めしの後をさっぱりと口直しした。


 酢の物はお雪が辺見の食後に合わせて作った。竹蔵は豆腐を鍋で炒りながら横目で見ていた。


 お雪に淡い気持ちが芽生えているのを、竹蔵は気付いていた。辺見は侍である。実らぬ恋の悲しさを憂いてもいた。


 板場に戻ったお雪は小鉢を拭きながら、辺見が食するのをちらりちらりと上目に見ていた。小娘のようだった。


「お雪、燗が付いた。先生に持って行ってくれ」


 竹蔵は、にこりと笑いながら言う。お雪は、はいと嬉しそうに答え、辺見の所へ持って行く。燗徳利を出しながら、


「酢の物、お味はいかがですか?」


「うまいね。めしの後だから、酒が進まなくなっていた。これは良い。きゅうりに生姜の酢の物。口の仕り直しだね」


 針生姜の辛味と歯ざわり良さも相まって、単純だが絶妙の一品であった。


「お雪さん、あっしにも酢の物くれ」


 吉蔵は見ていた。にっこり笑いながら言う。隣に座る常吉も、近くでつられて飯を頼んだ男も。口を揃えて、


「あっしも頼む」「あっしにもくれ」


 3坪程の店内である。客同士の話は筒抜け同然である。普段は知らぬふり。飲み屋の処世術でもある。


「あらあら、珍しいことね。酢の物の注文はが3つも。用意して来ますよ」


 お雪は辺見の側にいたかったが、板場へ戻って行った。竹蔵に笑いかけて、きゅうりと生姜を手にした。


「ふっふっふ、大忙しだな。今日はめし屋だ」


 竹蔵は嬉しそうだ。お雪が自分から料理をすることはめったにない。料理が立て込んだ時だけである。


 お雪には教えたわけではないが、いつの間にか見よう見まねで覚えたようだ。


 それから4半刻程して辺見は帰って行った。長屋に帰ると左隣から呻きと女の泣き声に似た声が聞こえて来る。


 辺見にはその声の理由がすぐにわかった。いつもより半刻程早く帰って来た自分が悪いのである。


 暫く続いたがぴたりと声がしなくなった。終わったのであろう。ところが今度は右隣から始まった。


 始めは穏やかな営みだと気に留めずにいたが、暫くすると悲鳴に変わった。長い悲鳴の後、いびきが聞こえて来た。


 やれやれと安堵したが、身体が高ぶっている。苦笑いをした。両隣とも辺見の留守時刻を心得えていたのであろう。


 そう思うと、6つ半から5つ半(19時~21時)の1刻は帰宅を避けねばならぬと思った。


 いびきはまだ続いている。営みは終わるがいびきは続く。段々イライラしてきた。眠れない。


 ふと、引っ越そうと思った。この長屋は家賃を考えての引っ越しだった。しかし、今は懐に余裕がある。


 ここは街外れで、護り屋も蕎麦屋も遠い。何かと不便だ。明日、深川に詳しい竹蔵に相談してみることにした。


 寝付いたのは明け方だった。目が覚めたのは昼4つ半(⑾時)を過ぎていた。


 顔を洗いに井戸端に行くと、静かで誰もいなかった。両手を高く伸ばして大あくびをした。


 部屋に戻ると賃粉切りを始めた。大分遅れている。今日当たりは引き取りに来るかも知れない。


 小気味の良い音をさせて刻み始めた。音を聞きつけたのか隣の女房が引き戸を叩き、


「辺見様、おにぎりをお持ちしました。お昼にいかがかと思いまして」


「ありがたい、中に入ってくれ。今、手が離せない」


 女房は引き戸を開けて入って来た。左隣の女房である。竹の皮に包んだおにぎりを両手に抱え入って来た。


 三十路を少し超えた歳だろうか。昨夜、娘のような声泣き声を出していた女房とは思えない。


 本人は知ってか知らずか、にっと笑い顔で入って来た。


「おにぎりとたくあんだけですが、食べて下さい」


「丁度腹が空いて来た。すまないね。そこに置いてくれないか。ありがとう」


 よく見ると美人ではないが、愛嬌の良い顔をしている。立ち去りがたいのか賃粉切りを見ている。


「精が出ますね。良くそんなに細かく斬れるものですね」


「この刻み方で煙草の味が変わるんだよ」


「刻み方でですか?」


「そうだよ。それだけじゃない。この包丁の切れ味も味を大きく変える」


「大変なお仕事ですね。お忙しいところお邪魔しました」


 女房は感心したような顔をして帰って行った。帰ると直ぐにおにぎりを食べた。朝から何も食べていない。腹が空いていた。


 何も入っていない塩むすびのおにぎりである。たくあんをかじりながら、3個をぺろりと食べてしまった。


 食べ終わると直ぐに賃粉切りを再開した。一心不乱と言う程であった。おかげで暮れ6つ(18時)に全て終えた。


 今日は来なかったが、いつ取りに来ても大丈夫だ。安心と同時に腹が空いた。銭湯は止めて蕎麦屋へ行くことにした。


蕎麦屋の引き戸を開けるとお雪が駆け寄って来た。


「お早いですね。お食事にしますか?」


 嬉しそうに言う。


「うん、そうしてくれ。その前に竹蔵さんに相談がある。ちょっと良いかな」


 辺見は、お雪の返事も待たずに板場へ入って行った。竹蔵は驚いて、


「何かありましたか?」


「いや、何でもない。顔の広い竹蔵さんに、どこか、良い長屋を紹介して貰いたくて」


「確か引っ越されたばかりと聞いていましたが、不都合でもありましたか?」


「いや、仕事の都合で街中へ引っ越したい」


 秘め事がうるさくてとは言えない。事実、街中の方が仕事には都合が良い。


「お雪、お前の長屋、隣が引っ越して行ったばかりで物騒だと言っていたな」


 お雪がえっと言う顔をして、


「そうなんですよ」


                      つづく

次回は7月7日火曜日朝10時に掲載します