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      15、ぬか漬け

 善吉はいつもの席へ向かった。満席になるには早い時間である。席は空いていた。


 シーンとなった店内に、お雪の声が良く通った。


「いらっしゃいませ。今日は何になさいます」


「熱燗にぬか漬けを頼む」


 善吉は下を向いたまま言う。お雪はいつものように板場へ戻って行った。善吉は顔を上げてお雪を目で追った。


 店内はいつもに戻り、各々に飲み始めた。吉蔵が振り向いて声を掛けた。


「善さん、今日はいわしの焼いたのがうまいぜ」


「ありがとう。今日は無性にぬか漬けが食いたくてな」


 そこへ、お雪が酒とぬか漬けを運んできた。


「お待たせしました。どうぞ」


 善吉は黙ってうなずくと箸を取り、ぬか漬けのきゅうりを口に入れた。じっとして口だけを動かしている。


「そうか、お雪さんのぬか漬けは特別うまいからな。おんや?おめえ、泣いてんのか?どうしたんだよ!」


 それには答えず、手酌で酒を飲む。涙が次から次へとこぼれていく。吉蔵はめしを終えて、手酌で酒を飲み始めた。


 4半刻すると、善吉は立ち上がつた。


「お雪さん、勘定してくれ」


「あら、もう、おしまい?今日は早いのね」


「うん、明日、京へ行くんだ」


「京へ?」


「色々世話になったね。ぬか漬けうまかったよ。お雪さん・・・元気でね・・・」


 言葉に詰まった善吉は、くるっと踵を返すと帰って行った。店の客は気付かなかった。辺見と吉蔵以外は。


 善吉の京への旅は2日前に決めたことであった。


 再来年、善吉の父が50の賀を迎える。それを期に善吉に嫁を取らせて店を継がせる予定でいた。


 同業の娘を嫁に迎える手はずであったが、善吉がどうしても承知しない。それどころか京の商いを見てくると言う。


 善吉は一人息子である。若いが商才に長けていた。父秀蔵も舌を巻くほどであった。しかし、言い出したら言を曲げない。


 二代目継ぐ前に、1年の期限付きで京へ行くと言う。紹介状は全て拒否された。善吉の強い意志に任せるしかなかった。


 お雪のことは妻としての女性を思い描いていた。どこまでも優しい人だった。それは客への相対に表れていた。


 客の殆どが気の荒い職人である。誰でも、その強い語調に言い負かされていた。お雪は自然に相対していた。


 優しい顔に似合わず、どこまでも優しく話し続けていく。職人はいつの間にか納得していた。


 客との相対は、身の上話にまで及んだ。善吉は聞いていてほろりとさせられた。そう言う場面を何度も見た。


 自分の女房にはお雪さんしかいないと思い詰めた。親には出戻りであると反対されたが折れてくれた。


 ところが断られてしまった。それでもと店に通ったが許嫁がいると聞き身を引いた。店に行くのを止めた。


 明日は京に発つと思うと、諦めたはずのお雪さんが思い出された。考えてみれば、店には黙って行かなくしたのである。


『あたしが漬けたのよ。お味はいかがですか?』


 そう聞いて来た時の笑顔が忘れられない。そうだ、別れの挨拶はしなくてはならない。けじめは必要だ。


 善吉はそう思うと、居ても立ってもいられなくなって蕎麦屋を訪れた。そして、自分なりに決着をつけた。


 お雪は悲しそうな顔で、茫然として立っている。


 吉蔵は善吉のことを知っている。自分のことのように胸が潰れそうになった。辺見が恨めしかった。立ち上がると、


「先生、隣に行って良いですか?」


 辺見は頷いた。吉蔵は徳利を持って隣に座った。


「あれ?先生、お酒はまだ飲んでなかったのですか?」


「めしを食べたところだ。これから飲む」


 そこへ、お雪が徳利と猪口を持って来た。代わりにめしの盆を下げて行った。


「どうぞ」


 吉蔵は自分が持って来た徳利を置き、お雪の運んで来た徳利で酒を注ぐ。


「手酌でやるから後はいいぞ」


「へい、わかりやした」


 吉蔵は隣に座ってみると、なんとも居心地が良い。自席から見ていた堅苦しさが感じられない。気安く答えた。


「おまえも猪口を持って来い」


「良いんですか?すぐ持って来ます」


 まさか、侍と一緒に酒が飲めるなんて思ってもいなかった。話を伺いたかっただけだ。猪口を持って横に座った。


「さ、飲め。後は勝手に飲むが良い」


 辺見は吉蔵の猪口に酒を注ぐ。


「ありがとうございます」


 両手で猪口を持ち一気に飲んだ。


「先生、お伺いしてえことがあります。良いでしょうか?」


 辺見は黙って吉蔵の顔を見た。


「いえ、やっぱり良いです。何でもありやせん」


「そうか、言いたくなければ言わなくていい」


 吉蔵はお雪とのことを聞きたかった。許嫁と言うことがどうにも解せない。武家同士でなければあり得ないことだからだ。


 辺見は咄嗟に思い付きを言ったまでだったが、聞いていた者は真に受け止めていた。善吉は生き方を変えた。


 吉蔵も黙ったまま飲み続けた。自分の持って行った徳利が空になると、


「ありがとうございました」


 頭を下げ、立ち上がると自席へ戻って行った。


 辺見には吉蔵が聞きたかったことは察しがついていた。お雪のことであろう。


 お雪に会うと胸がせつなくなる。悲しいくらいだ。いつからこうなったのかわからない。


「酢の物です」


 お雪がにっこり笑いながら、白く抜けるような手で差し出した。辺見はその顔をじっと見つめた。


 お雪は思わず目を逸らした。恥ずかしかった。頬をほんのり染めて板場に戻って行った。誰も気付かなかった。


                       つづく

次回は6月30日火曜日朝10時に掲載します