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    11、溢れる涙

 お雪は暮6つを過ぎると、入口の引き戸が開くたびに手を止めて見る。何とも落ち着かない。竹蔵が知らぬふりをして、


「雨でも降りそうか?ぬか漬け出してくれ」


「はい」


「おまえに任せてから半年になる。客の注文が増えたな」


「あら、そうですか」


「ぬかの加減が良いのだろう。客は正直だ。わしの時より注文が増えた。先生もぬか漬け好きなようだな」


 お雪は、ぬか床からきゅうりと大根と人参を取り出し2つの小鉢に切り分けた。


 その時、引き戸が開いた。


「先生がお見えだ。噂をすれば影だな」


 竹蔵の言葉が終わり切らないうちに、お雪はいつもの辺見の席へ向かった。辺見が座るや否や、


「いらっしゃいませ、昨日はどうなさいました?」


「仕事の都合だ。すまなかった」


「いいえ、構わないのですよ。今、ご用意致します」


 嬉しそうに板場に戻って行った。


「燗酒しておいた。いかと大根煮つけとぬか漬けを先生に出してくれ」


 店中では


「先生!こんばんは。昨日はどこで浮気してたんですか?」


 甚兵衛がにやりとして言う。辺見は振り向きもせず板場を向いたままだ。そこへ、お雪が酒と肴を運んで来た。


「ありがとう」


 一言礼を言うと、黙って手酌で飲み始めた。お雪はその後の言葉を待ったが言葉は無い。


 その場に立っているわけにもいかず、お雪も板場へ戻って行った。それでも、辺見が来ただけで心が嬉しかった。


「先生、どうぞ!」


 甚兵衛が徳利を手に酌をしに来た。その頭を見て、


「腫れが引いたようだな」


 甚兵衛ははっとなった。瘤が出来たとは誰にも言っていない。自分だと知っていたのだ。手が小刻みに震えた。


「心配しなくて良い。無茶はしないことだ」


「はい、申し訳ありませんでした」


 その場に両手を付こうとする。


「気にするな。さ、一杯やれ」


 辺見は猪口を片手で軽く振ると甚兵衛に差し出した。


「ありがとうございます。おこぼれを頂戴致します」


 甚兵衛は両手で猪口を持ち、恭しく受けた。手の震えは止まったが、言葉は少し震えていた。


「そう、畏まるな。少し話がある。そこに座れ」


 辺見は隣の席を勧めた。甚兵衛は恐る恐る座った。


 肩をすぼめて、小さくなって座っている。まさかに、自分が襲ったとは気付かれていないと思っていた。


「先生、すんませんでした」


「ははは、気付いていないと思っていたか。さ、飲め」


 笑いながら、猪口を手にして、


「おっ、甚兵衛、猪口を持って来い」


「へい」


 甚兵衛は救われたような気持になって、猪口を取りに行ってきた。


「さ、飲め」


 甚兵衛は言われるままに、立て続けに猪口の酒を飲んだ。次第に落ち着いて来た。


「先生もお人が悪いや。知らないふりをするんだから。こっちは安心してましたよ」


「それでな、なぜ、わしを襲った。それが聞きたいのだ」


「・・・・はい・・・」


「だから、なぜだ?」


「店に来ないようにしたかったのです」


「わけがありそうだな?」


「お雪さんが特別扱いするからです」


「そう言う事か、お雪さんとは許嫁だから仕方がないことではないか」


「だから、来ないようにしたかったのです」


「知らぬ間に恨まれていたと言うことか。しかし、諦めることだな」


「でも先生、町人はお侍さんと婚儀は出来ないでしょう」


「武家であればそうだが、わしは浪人だ」


「ご浪人さんは出来るのですか?」


「出来る。武士ではないからな。そうか、それを心配していたのか。心配は無用だ。さ、飲め」


「はい、それではこの湯呑でいただきやす」


 甚兵衛は急に毅然とした顔になり、一気にくーっと飲み干した。


「先生、あっしは心得違いをしていました。今夜から、これを持ちまして謹慎致します。ありがとうございました」


 甚兵衛は立ち上がると板場に行き、竹蔵とお雪に向かってお辞儀をする。巾着から1分銀を置いて帰って行く。


 (1分銀=2万5千円)


「甚兵衛さん、おつりよ」


 お雪が後を追うと、


「少ねえが取っといてくんねえ」


 振り向きもしないで帰って行く。甚兵衛の目には涙が溢れていた。右の拳で拭きながら小走りに走った。


 辺見は複雑な気持ちになっていた。依頼された仕事はこれで終わった。しかし、心持が良くなかった。


 甚兵衛と善吉に、お雪との婚儀を諦めさせるのが仕事だった。とは言え、話の成り行きから許嫁と言ってしまった。


 嘘も仕事と割り切っていたが、いつしか心にお雪が住み始めた。その顔を思い出すと胸がせつなくなる。


 昨日、たった一日会わなかっただけだ。それが待ちかねたように今日は来てしまった。それからがいけなかった。


 甚兵衛を思いやる気持ちに欠いていた。その気持ちを考えるなら、諦めることだとは言うべきではなかった。


 もう少し時間をかけて、自分から諦める方法を取れたはずだ。何を急いでいたのか、急ぐ必要もないのに。


 自分の心の狭さを見たような気持ちだ。仕事とは言え、自分の都合で甚兵衛と善吉に諦めさせた。


 自分が情けなくなった。それでも武士かと思うと、深酒をしてしまった。気が付くと他に客はいなくなっていた。


「先生、暖簾は引っ込めますがゆっくり飲んで下せえ」


 板場の竹蔵が声を掛けた。お雪は引き戸を開け、暖簾を中へ入れると辺見の横に来た。


「先生、どうぞ」


 にっこり笑って酌をする。


「ありがとう。久しぶりに酌をしてくれたな。仕事は今日で終わった。明日から甚兵衛も来なくなるぞ」


「ご迷惑をお掛け致しました」


 お雪が深々と頭を下げる。その横から、


「ありがとうございます。さっきの様子でおおよそ見当はついておりました。本当にありがとうございました」


 竹蔵が板場から出て来て丁寧にお礼を言う。


「明日から寂しくなる。もう、ここへは来る必要が無くなった」


「えっ、どうしてですか?」


 お雪が驚いたように言う。竹蔵が口を添える。


「先生、これからもお出でいただきませんと他の客の手前があります。あれは芝居だったのかと言われます。これまで通り、酒と飯を召し上がって下さい。お願い致します」


 お雪は辺見の顔を伺う。辺見はどう返事して良いのか迷った。心の中を読み取られたような気がしたからだ。


「いや、それは出来ない」


                      つづく

次回は6月2日火曜日朝10時に掲載します