Shopping Cart
Your Cart is Empty
Quantity:
Subtotal
Taxes
Shipping
Total
There was an error with PayPalClick here to try again
CelebrateThank you for your business!You should be receiving an order confirmation from Paypal shortly.Exit Shopping Cart

        10、芽生え

 二人は旗本屋敷町を出た。この刻になると道端に客待ちの駕籠屋はいない。そのまま歩き、旦那を店まで送り届けた。


 能面の様に血の気を失い、唇を震わせていた旦那も、店に着くと落ち着きを取り戻した。


「先生、ありがとうございました。どうぞお上がり下さい」


 与兵衛は態度が一変していた。呼び方も先生になっている。


「役目は終えた。これで失礼致す」


「いいえ、このままお帰えしするわけには参りません。どうぞお上がり下さい」


 ほぼ強引に奥座敷へ通された。すぐに酒と肴が用意された。辺見は昼から何も食べていない。遠慮なく食した。


 そこへ同心が訪ねて来た。与兵衛が出て行った。駕籠屋の知らせで急行したが、籠だけが残され誰もいなかった。


 血溜まりがあり、店に訪ねて来たと言う。与兵衛の無事を知り安堵したようだ。辺見の面通しもして帰って行った。


「先生、今夜は本当にありがとうございました。これからもどうぞよろしくお願い致します」


 与兵衛が両手を付いて、改めて礼を言う。


「これは仕事だ。そう改まって礼を言われると恐縮する。それだが、ひとつ願いがある」


「はい、何でございましょうか?」


「すまぬが飯にしてくれないか、腹が減ってな」


「気が付きませんで、申し訳ございません。すぐに用意をさせます」


 女中がすぐに用意して持って来た。出来合いとは言え、5品のおかずが用意されていた。


 見栄え良くうまそうだ。食欲をそそった。辺見はめしをお代わりをして食べた。余程腹が減っていたようだ。


 それもそうだ、いつもなら蕎麦屋でとっくにめしを食べ終わっている時間だ。食べ終わると、もう用はなかった。


「馳走になった。これで失礼する」


 辺見が満足顔で立ち上がろうとすると、与兵衛が紙包みを両手で差し出した。


「礼金は貰っている」


「いえ、これは別でございます。ほんのお気持ちでございます。どうぞお納め下さい」


 辺見は長屋に帰って紙包みを開いた。10両の金子が入っていた。驚きを隠せなかった。


 明日は護り屋から、さらに半金の3両が貰える。前金と合わせて5両。最初の礼金は2両。合計17両である。


 こんな割の良い仕事があるとはと、辺見の意識が変っ

た。しかも諦めていた剣の道が生かせる。


 ちんこきりは、精魂込めて刻んでもひと月に2両にもならない。しかし、地道な正業である。


 護り屋の仕事は、これからも来るわけではない。たまたま蕎麦屋で会った神代に依頼されただけだ。


 そう思ったとき、ふと蕎麦屋が頭に浮かんだ。なぜかお雪の顔と重なる。蕎麦屋の仕事も残っていたと思い出した。


 蕎麦屋では、お雪が黙りこくって皿を拭いていた。店は宵5つ半(21時)に閉めた。客はもういない。


「お雪、もう帰って良いぞ。どうした?気分でも悪いのか?」


 竹蔵が心配して聞く。


「先生どうしたのでしょうね」


「たまには、他の店にも顔を出したんだろうよ」


「私、帰ります」


 お雪は唐突に言った。そして自分の長屋へ帰って行った。


 あくる日、護り屋神代は辺見の訪問を受けていた。


「それは、二人組であったか、富蔵屋は何かと評判が悪い。強盗ではないな。命を狙ったのであろう」


「二人の役割が決まっていた。一人は与兵衛、一人は護衛人と分断を決めていた」


「必殺の手段だな」


「兵法に長けている。護衛は一人と計っていた」


「流石でござる。並みの護衛では、与兵衛の命はなかったであろう」


 神代は後金の3両を差し出した。


「それは要らぬ。昨夜、10両別に貰った」


「いや、それはそれ。これは約束の後金だ。納めて頂く」


 辺見は戻した3両を強引に押し返された。


「辺見殿、今度は月明けて5日の夜にお願いしたいが、いかがでござるか?」


「やらせて頂こう」


「それはありがたい。同じく札差の護衛です。代も同じく5両。4日にお出で頂きたい。内金をお渡しする」


 神代の家を出た。仕事はこれで終わりではなかった。次の仕事が託された。何だかうきうきして来た。


 街中を歩いていると、焼き魚の匂いが漂ってくる。まだ昼飯を食べていない。ぐんと腹が減って来た。 


 辺見は近くの一膳飯屋に入って行った。焼き魚の匂いはここからであった。いわしの丸干しを次から次と焼いていた。


 太いいわしの焼き魚に、飯と味噌汁と漬物。それだけだが、箸を入れるといわしから油が染み出てうまかった。


 食べてから、お雪の蕎麦屋まで我慢すれば良かったと後悔した。何だかすまないような気になった。


 夕飯まではまだ大分時間がある。帰り着くと銭湯へ行った。ゆっくり入ったつもりだったが、まだ夕7つ半(17時)。


 暮6つ半(19時)までにはまだ一刻もある。刻が経つのが遅い,もどかしい気持ちになっていた。


 どうしたのだろうこの気持ちは。ふと、お雪のにっこり笑った顔が浮かんだ。一日会わなかっただけではないか。


 辺見はちんこきりを始めた。想いを断ち切るかのように一心不乱に刻み始めた。小気味の良い音が部屋中に響いた。


 隣の女房がその音に気付いた。二日ぶりに聞くちんこきりの音である。その音に夕飯の支度がはかどる。女房は喜んだ。


 夢中になったおかげで一刻の時間が過ぎた。辺見は長屋を出て蕎麦屋に向かった。心とは逆にわざとゆっくり歩いた。


                       つづく

次回は5月26日火曜日朝10時に掲載します