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   8、ちんこきり

 昼八つ半(15時)過ぎて間もない頃、辺見の長屋にどこか手代風の男が訪ねて来た。辺見様と何度も呼び掛けた。


「辺見様はお出かけですよ」


 隣の女房が出て来て言う。男は大きな風呂敷包みを背に抱えている。


「そうですか、では又出直して来ます」


「荷物でしたらお預かりしましょうか?」


「いや、大丈夫です。夕方もう一度来ます」


「そうですか、わかりました」


 女房は残念そうに言う。辺見と関りを持ちたいのである.男を見送ると部屋に入って行った。


 それからすぐに辺見が帰って来た。男も一緒のようだ。壁に耳を付けて様子を伺う。


「辺見様のちんこきりは評判でございます。旦那衆はこれが本物のちんこきりだ。これでなくっちゃならねえと申します」


「そうか、しかし、今後仕事を減らすことになりそうだ」


「そ、それは困ります。旦那衆の依頼が引きも切りません。お代は次回から倍に致します」


「うん?どこかで聞いた話だな。これからのちんこきりは少し仕事を減らしてくれ」


「とんでもございません。辺見様の仕上がりは、他に変わりがございません。どうぞよろしくお願い致します」


「今回の分だ。持ち帰ってくれ」


「ありがとうございます。刻み代にございます。色を付けて置きました。それから次回の分でございます」


「わかった。少し日数(ひかず)が延びるかも知れないぞ」


「結構でございます。お待ち致します。どうぞよろしくお願致します」


 引き戸が開いて男が出て行ったようだ。隙間から覗くと男の背中の荷物はなく。手に持ち直して帰って行った。


 女房は怖い話を聞いてしまった。身体の震えが止まらない。ちんこきりと言う恐ろしいことをしている人だったのだ。


 いい男は冷酷だと言うが、刻むとは残忍過ぎる。女房は土間に座り込んだ。そんな怖い人が隣に住んでいる。


 その夜は思い出すと怖くて、亭主に求められても燃えることは無かった。静かな夜になった。


 翌朝、井戸端でその話をした。みんな一様にまさかと驚いた。しかし、一番の年嵩の女房は、


「世の中はそうでなくてはいけない。浮気したのは女が悪いんじゃない。そそのかした男が悪い。当然の報いだよ」


「でも、刻むなんて残酷だよ。使い物にならなくなるよ」


「当たり前じゃない。男に罰だよ。女は受け身だからね」


「あんた、そればっか言ってるね。浮気してんじゃないの?」


「ないない、この人にそんな男がいるはずない。ハエがたかるだけだよ。ぶんぶんとね。違った。ぶすぶすだった」


「ちきしょう!こうしてくれる」


 ざばっと桶の水を掛けた。つかみ合いが始まった。蹴出しが跳ねて、腰巻から素足が丸出しだ。後の3人は笑って見物している。


「おはよう、賑やかだね。顔を洗わせて貰いたい」


 辺見がいつの間にか桶を持って立っている。2人は咄嗟にやめて立ち上がり、恥ずかしそうに蹴だしを整えた。


 他の女房達もびっくりして立ち上がった。見物に夢中で、辺見が来たのを気付かなかったのである。


 辺見は、ぽーっとするほどいい男だった。改めて見たが、とてもそんな残酷なことをする男とは思えない。


「こちらにどうぞ」


 年嵩の女房がすぐに場所を空け、しなを作ってにっこり笑いながら言った。


 他の女房もさっきの話を忘れたかのように、にっこり愛想笑いをしている。


 辺見はすまぬと言って桶に水を汲み顔を洗った。洗い立てのその顔に、女房達は茫然として見とれている。


 いい男ぶりの辺見になおも見とれていたが、女房の一人が沈黙を破って口を聞いた。ありきたりの挨拶言葉である。


「お仕事、お忙しいですか?」


 他の女房達はその言葉に我に返った。あっ、ばかね、そんなこと聞いて!とその女房を睨んだ。


「音がうるさいか?すまんな。気を付けているつもりでいたが・・・」


「いいえ、ちっともうるさくありませんよ」


 女房達はほっとして頷き無言で口を合わせたが、隣の女房は一言多く、


「昼間に、小気味の良い小さな音が聞こえてくるだけですから・・・」


「そうか、やっぱりそうか。内職のちんこきりの音だ。気を付けているつもりでいたが、勘弁してくれ」


 それを聞いた女房達の顔が青ざめた。私たちは聞いた以上ただ事ではすまされないわ。顔を手で押さえる者もいた。


 辺見はにっこりと笑い顔で、


「ちんこきりと言っても聞きなれないだろう。煙草の葉を刻む内職だ」


 (ちんこきり=賃粉切りと書き、江戸時代の内職の1つ)


「えーっ!」


 女房達は声を揃えた。全員の顔に生気がよみがえった。


「あんたが変なこと言うから誤解しちゃったじゃないの」


「このとんちんかん」「もう、死ぬじゃえ!」


 隣の女房はさんざん悪口を浴びさせられた。でもほっとして嬉しそうだった。


 辺見はなんだかわからぬが、女房どもがわいわい騒ぎ始めたのでそのまま部屋に戻って行った。


 昨日、神代に言い難いことをずばり言われた。着るもので銭も変わると。そう言われたことを思い出した。


 出仕などあるはずがもないが、いざという時のために取ってある着物に召し換えた。


 上から下まで一分の隙も無い武士の姿である。


「辺見様お迎えに参りました」


 小者の訪なう声がする。


                       つづく

次回は5月12日火曜日朝10時に掲載します