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風邪の引き合わせ 1

 週末の金曜日、今日で5日も会えない。何かあったのだろうか?彼女とは話をしたことも、挨拶すらしたこともないが、毎朝同じホームに立ち、ほぼ同じ場所に座る。綺麗な人だ。

 ここに越して来て3か月になる。彼女は座ると、文庫本を出して読む。俯き加減の顔が、憂いに満ちてなんとも素敵だ。恋人はいるのだろうか?いないはずはないな。

 あれっ、彼女だ。発車間際に乗り込んで来た。男は嬉しくて思わず声が出た。

「おはようございます」

「おはようございます」

 にっこり笑って、彼女は挨拶を返す。いつもの向かい合わせの席が埋まっていて、彼女は救われたよう男の隣に座った。

「お元気でしたか?」

「えぇ、風邪をひきまして、やっと良くなりました」

「やっぱりそうでしたか、お見かけしないので心配していました」

「あら、うれしいですわ。見も知らぬ方が、気に留めていただいたなんて」

 男は返答に困った。淡い心を抑えて、

「本、お好きなんですね。どんな本をお読み何ですか?」

「推理小説です」

「作者は誰がお好きですか?」

「ウイリアム・アイリッシュです」

「アイリッシュは私も大好きです。推理というより心理小説と言っても良いかも知れませんね」

「お詳しいですね」

「今、何巻をお読みですか?」

「はい、三巻です。でも二巻はまだ読んでいません。本屋さんで売り切れていました」

「そうでしょう。この本は置いてあるところが少ないですからね。良かったら差し上げます。月曜日にお渡しします」

「本当に良いですか?厚かましいですが、お貸しいただけますか?」 

「ええ、もちろんです」 

        

つづく

         風邪の引き合わせ 2

 男はいつもの時間より、三十分も前からホームにいた。ホームの階段口を睨むように見ていた。しかも、少しも落ち着かない様子だ。

 電車はその間二本発車した。ひょっとして今の電車に乗って行ったのでは、見落としたのではないかと不安になって来た。

「おはようございます」

 彼女だ。良かった。気が変わったのかと思った。落ち着いたふりをして、

「おはようございます。風邪の具合はいかがですか?」

「おかげさまで、すっかり良くなりました」

 その時電車が入って来た。二人は並んで座った。座りながら彼女からいい匂いがした。

 男は鞄の中から本を取り出した。

「アイリッシュの第二巻です。どうぞ!」

「ありがとうございます。お借りいたします」

「いいえ、差し上げます。お持ち下さい」

「いただいて良いのですか?」

「私は読みましたから不要です。貰っていただけると嬉しいです」

「それでは遠慮なくいただきます」

 二人はアイリッシュの話で時間が経つのを忘れた。間もなく乗り換え駅、相模大野である。聞けば彼女も新宿まで一緒である。

 座れなかったが、いつもながらに混んでいて、二人は吊り革につかまりながらも、ぴたりとくっつかざるを得なかった。それでも話は弾んだ。二人の話は尽きることは無かった。

「では、紀伊国屋前に六時に待っています」

 男は一日中、仕事に身が入らなかった。とにかく、早く六時になって欲しいと思った。

 本を見るわけではなかったが、二人の共通にわかる場所は紀伊国屋であった。

 男は十五分前に着いた。彼女は先に着いていた。こちらを見て手を振っている。

「お待たせしました。ごめんなさい」

 男は彼女を1階喫茶室に誘った。

                つづく

  風邪の引き合わせ 3

「そう、赤鬼と青鬼の話。日本の昔話は、良く出来ています。イソップ物語も素晴らしいが、人間が生きるについての、心情を描ききれていない」

「あら、そうかしら?人それぞれの、感じ方の違いかしら・・・」

「理屈っぽくなりました。ごめんなさい。面白いのが一番ですよね。ハハハ」

 男は理屈っぽい話をしたことを後悔し、作り笑いをした。

「ところで、僕たち名前も知りませんよね。変ですね。この人紹介します。松野敬一と言います」

 男は自分を指さし、おどけて言う。

「失礼しました。私は水島京子と言います。よろしくお願いします。フフフ」

 

 女も自分を指さし、にっこり笑いながら、吹き出しそうに言う。

「こちらこそ、よろしくお願いします。お見合いみたいですね」

「違いました?」

 京子はジョークで返した。ここ二年程ジョークどころか、あまり笑ったこともなかった。

 お互いの愛を信じていた人が、二年前、他の人と結婚した。学生時代から十年の付き合いだった。以来、男性不信だけでなく人間不信に陥っていた。

 しかし、松野には不思議に、何の違和感も感じなかった。

自分が自然のままでいられた。男性と言う意識もなかった。気が付くと、もう一時間も話をしていた。

「お腹空きません?近くにおいしいカレー屋さんがあります。行きませんか?」

「あら、良いですね。お腹空きましたわ。行きましょう」

 松野は嬉しくなった。まさか自分と食事を一緒にしてくれるとは思っていなかった。

「中村屋です。辛いですよ。うまいです!」

「私、カレー大好きです。カレー作りも凝ってますよ」

 京子は、何だか嬉しかった。自然に返事をした。自分が自然でいられた。

                      つづく

      風邪の引き合わせ 4

 帰りの電車は、1本見送って二人で座って乗った。九時過ぎても乗客は多い。

「友人は、美味しくないと言うのです。辛さも味のうちだ。辛すぎると言うのです」

「慣れないと、辛さの美味しさはわからないかも知れません。私も初めは、市販のカレーでも、辛くて大変でした」

「成程、食べ物飲み物は、慣れって必要かも知れませんね。ビールだって、子供の頃は、こんなに苦いものを、大人はなぜ飲むのだろうと思っていました」

「今は好きなんでしょう?」

「ハハ、大好きです。自分で作るカレーも、辛さが決め手です」

「お作りになるのですか?」

「はい、カレー粉と小麦粉を、バターで炒めることから始めます。作ると三、四日はカレーです。一人には便利ですよ」

「あら、お一人でしたか?」

「大分昔ですが、振られました。その人は他の人と結婚しました。あっ、馬鹿だな。余計なことを言ってしまった」

 京子は、私もよと言いかけて止めた。

 あと一駅で二人の降りる駅に着く。松野は、このまま駅で別れたくなかった。

 京子は、無言になった。このまま帰りたくなかった。楽しかった。異性といて、こんなに自分が自然でいられるのは初めてだった。

 もっと一緒に居たいと思った。松野が何か言ってくれるのを待っていた。

 二人は、出来るだけゆっくり、改札を出た。松野は迷ったが、口から出た言葉は、

「今日はありがとう。又ご一緒して下さい」

「はい、お待ちしています。こちらこそありがとうございました」

「それではまた明日、お休みなさい」

「お休みなさい」

 二人は右と左に別れた。

                     つづく

 風邪の引き合わせ 5 (最終回)

 隣に座った京子は、いつになく寂し気だ。

「どうしたの?元気ないね」

「今日、時間ありません?話したいことがあるの」

「いいよ。どこで会う?」

「じゃ、思い出の場所。紀伊国屋の喫茶店、六時で良いかしら?」

「いいよ。でも思い出なんて、大げさだな」

 二人が初めて、一緒に入った喫茶店である。あれから、半年になる。月に二、三回は一緒に食事をしたり、コンサートに行ったりするようになった。しかし、家は近いのに、お互いの家には行ったことは無い。

 喫茶店に着くと、京子はまだ来ていなかった。座ると間もなく入って来た。

「元気ないね、どうしたの?」

「ううん、何でもないわ。お待たせ。ごめんね」

 にっこり微笑んで見せるが、なぜかぎこちない。運ばれたコーヒーにも手を付けない。

「どうしたの?心配事なら話してごらん。僕が役に立つかも知れないよ」

 京子はコーヒーにミルクをかき混ぜながら、

「会社が倒産したの。父が帰って来いって。家業の呉服屋を手伝おうと思うの」

 京子は引き止めて貰いたかった。自分がこんなに自然でいられる人は、もう現れないと思った。傍にいるだけで心が穏やかになった。

 松野には衝撃な話だった。時間が止まり、頭の中が白くなった。京子とは身の程知らずと思ったが、出来る事なら一緒になりたいと思っていた。京子は余りにも美しく素敵だった。そして心の優しい人だった。

 二人は沈黙した。

 突然、松野は座り直し、

「結婚して下さい。一緒にいて下さい」

 松野は悲壮な顔をして言った。

「私で良いんですか?」

 そして、頷いた。

京子の目に涙が溢れ、止まらなかった。

松野は目の前が世の中が急に明るくなった。

嬉しくて涙がこぼれた。それを隠すように、

「カレー食べに行こう]

はい