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         護り屋異聞記 29.

 谷崎は泥のように眠った。目が覚めると隣に早苗はいなかった。4半刻程して帰って来た。


 両手に何やら色々抱えて帰って来た。


「お帰り、どこに行っていた?」


「おはようございます。買い物に行って来ました。すぐに朝食の用意を致します」


「心配したではないか。早苗さんに出て行かれたのかと思いました。嫌われたことを後悔していたところです」


「どうしてですか?私がなぜ谷崎様を嫌うのですか?逆に嫌われたら、私は生きていられません」


「後悔しています。昨夜は強引なことをしまった…申し訳ありません。それで嫌われて出て行ってしまったと…」


「私、嬉しかったのです。今でも夢のような気持ちです」


 早苗は恥じらうように顔を赤らめ俯いた。28歳にして初めて女になったのである。まして、心から好きな人によって。


「早苗さんが好きだ。死ぬほど好きだ。身体も早く夫婦になりたいと思った。本当に申し訳ないと思っています」


 谷崎は急に両手をついて謝る。


「いいえ、ありがとうございます。私達本当の夫婦になったのですね。これからもよろしくお願い致します」


 谷崎は本当の夫婦との言葉を聞いて嬉しくなった。嫌われたと思ったのは思い違いだった。そう思うと悪戯心が起きた。


「これからも?あ、そう言う意味ではないですよね」


「まあ!どうしましょう。恥ずかしい」


 早苗は身をよじるようにして恥ずかしがった。それを見て谷崎はいつもの谷崎に戻った。にっこり笑いながら、


「そうだ、夫婦になったのだ。これからは早苗と呼び捨てにするよ。それから谷崎様は止めてね」


「はい、わかりました。では何とお呼びすれば?」


「うん、困ったな。何と呼ぼうか?」


「旦那様では商人のようで変ですね。あなた様ではいかがでしょうか?」


「うん、良いね。しかし、様はいらないね。あなたで良い。これからはそう呼んで下さい」


「わかりました。でも、何だか恥ずかしいです」


「早苗、呼んでみてくれ」


「…あなた…」


 俯いて小さな声で言う。


「聞こえないよ。もっと大きな声で」


「はい、あなた…」


「うん、それで良い。これで真の夫婦になったのだ。今から父上に、改めてご挨拶に参ろう」


「場所はおわかりですか?」


「うん、太吉さんから聞いている。竹蔵さんの蕎麦屋の近くだそうだ。行って聞けばわかると思う」


 蕎麦屋に入ると竹蔵とお米に歓待をされた。すぐ近いからとお米を案内に出してくれた。


 すぐ裏の長屋で、1町と離れていない。部屋の前に来ると、谷崎が引き戸の前で訪うた。


「お父上、谷崎です」


「おーっ、谷崎殿か。良くお出で下さすった」


 新蔵はすぐに出て来た。


「早苗も一緒か、さ、どうぞ、上がって下され」


 谷崎は両手を付いて深々と頭を下げ、


「お父上にはご不便をおかけ致します。申し訳ありません」


「とんでもない、頭を上げて下さい。早苗を娶って戴き感謝しております。不束な娘ですが、どうか末永くよろしくお願い致します」


 新蔵が亡くなったのは、それからひと月も経たない内だった。労咳は治っていなかった。悪くなっていたのである。


 ふた月前、引っ越して来た時から労咳は悪化していた。早苗に心配させまいと快方しているふりをして安心させた。


 しかし、咳と共に血を吐くようになっていた。医者の話からもう長くないと悟った。後に残る早苗が心配だった。


 亡き妻に早苗の幸せを約束した。そんな時、身近に谷崎と言う素晴らしい浪人が現れた。妻の導きかも知れない。


 新蔵は二人を一緒にさせることに命を懸けた。谷崎を招くことから始めた。早苗に言伝させると嬉しそうだった。


 自分が生きている間に早苗を嫁がせたかった。早苗が自分を置いて嫁ぐことはあり得ないと思ったからである。


 かと言って、早苗を一人残せば心配の種は尽きない。


 父として自分の目の叶った相手と結婚させたい。早苗も谷崎殿に好意を持っているようだ。何としても成就させたい。


 喀血は散歩中に休むことで隠した。発作の起きやすい朝は谷崎に朝飯を持って行かせ、早苗を部屋から留守にした。


 夜は寝床に入ってから咳が出ぬよう、静かに咳を押し殺した。苦しかったが早苗を信じさせることが出来た。


 そう思っていたが、いつの間にか早苗がそばに来て背中をさすっていた。優しい娘だった。幸せにして上げたい。


 念願叶って二人は結婚した。新蔵は一人で住むことになり、病を隠さずに過ごすことが出来るようになった。


 張り詰めた気持ちは無くなった。安心感からか、ごろりと横になることが多くなった。


 早苗は谷崎のいない昼頃に、買い物を兼ねて父新蔵を訪れた。顔色が悪いので心配して医者を勧めたが、大丈夫だ心配するなと行かなかった。


 新蔵は、蕎麦屋には朝と夜必ず顔を出した。お米があまりに顔色が悪いので竹蔵に知らせた。


 竹蔵は心配になって、しばらくの間、朝と夜の食事は届けるようにとお米に言った。


 食事を届け始めた二日目の朝、返事が無いのでお米が中に入ると新蔵がうつ伏せに倒れていた。そのまま死んでいた。


 そばには喀血を拭ったのであろう。血に濡れた手ぬぐいが手桶に入っていた。穏やかな死に顔だった。

                      

 知らせを聞いて谷崎と早苗が駆けつけた。谷崎は早苗の手を引いて走った。


 長屋ではまだ知る人はいなかった。竹蔵が入口で待っていた。挨拶もそこそこに二人は部屋に上がった。


 早苗は新蔵の横顔に顔をぴたりと付け、両手で覆った。身体が小刻みに震えている。


 後悔していた。自分がそばにいたならと、悔やんでも悔やみきれなかった。


 隣に座る谷崎は、手を合わせてじっと黙祷をしていた。その時、耳元に早苗をよろしくお願いしますと聞こえて来た。


 思わず天井を見た。その方向を見て、必ず幸せにします。ご安心下さいと呟いた。


 早苗にも聞こえたのであろうか、早苗の身体の震えが止まっている。顔を付けたままじっとしている。


「早苗、お父上にお着替えさせて上げようか」


「はい、ありがとうございます」

 

 涙に濡れた顔を上げ、はっきりと答えた。谷崎も悲しいが、早苗がその自分を頼りに泣き崩れて欲しかった。


 谷崎は、近くに父上が出来たと嬉しかった。いつも忌憚のない話が出来、心から打ち解けた。心から尊敬もしていた。


 飲め飲めと続けて酌をする父の顔が浮かぶ。いつもにこやかに笑っていた。なぜかほっとした。その父はもういない。


 この夜、葬儀も終わり二人だけになった。早苗は線香を上げながら、ふと近くの手文庫が気になり開けて見た。


 手紙が2通入っていた。1通は早苗へとあり、もう1通は谷崎伝九郎殿と宛てあった。


 早苗はそれを見ただけで涙が込み上げて来た。はやる気持ちを押さえ、静かに開いた。


〝 早苗、おまえがこの手紙を読んでいると言うことは、私はこの世にいないと言うことだ。


 だから、恥を承知で書き留めて置く。私は文武に自惚れ仕官を夢見ていた。そして、それのみに生きていた。


 志乃が仕立て仕事で細々と生計を立てていたが、それは当たり前と思っていた。お前のことも全く頭になかった。


(志乃は新蔵の妻)


 その志乃が今際の際に早苗をよろしくお願いしますと涙ながらに言った。志乃が死んだ。身の程知らずの目が覚めた。


 改心したが30歳半ばを過ぎていた。働き口は無く、土担ぎ人足等をしたが身体を壊した。自業自得だった。


 見兼ねたおまえは、仕立て仕事を見つけて来た。志乃の仕事を見よう見まねで覚えていたのだ。


 志乃に申し訳ない。結局、早苗に仕事をさせてしまった。甲斐性のない情けない父だ。


 その私の為に、おまえは2回の見合いを断ってしまった。おかげで婚期を失った。慙愧に堪えない。


 酷い父親がいたものだ。早苗、心からお詫びをする。謝って済むことではないが許してくれ。償えることなら地獄にでも行きます。本当に情けない父親でした。御免なさい。


 この思いが天に通じたのか、不思議なことが起きた。谷崎殿との出会いだ。


 早苗が大家に家賃の支払いを相談に行った時、縁もゆかりもない浪人が払ったと言う。それが谷崎殿だった。


 会って驚いた。人品の素晴らしさが身体から後光のように射していた。それと、稀に見る剣客としての物腰。


 その魅力に一瞬で引き込まれた。生まれて初めてのことだ。これは志乃の手引きに違いないと確信した。


 お前を添わすことが出来たことは、我が生涯で唯一の果報です。何よりもお前たちが好き合ってくれたことが嬉しい。


 これからは、お前たちの幸せを志乃と一緒に見守って行きます。お前達の幸せが私達の幸せです。


                       父より 〟


 早苗は読み終わると、手紙を胸に抱いて声を上げて泣いた。谷崎が驚いてそばに来た。


 早苗は谷崎に優しく抱かれて、なおも泣き続けた。ようやく泣き止むと、手文庫から谷崎への手紙を渡した。


〝 谷崎伝九郎殿


 貴殿が娘を嫁に貰い受け下されたこと、衷心より喜びと感謝申し上げます。


 貴殿にお会いした時、一目で何十年来の知己に会ったような気になりました。しかも後光が射していました。今でも不思議な心持です。


 僅かなお付き合いでしたが、娘を嫁にやるには貴殿を置いて他にはいないと確信しました。


 少し強引な程の申し出になってしまったと思いますが、人の出会いは機を逃すと二度とありません。


 誠にご無礼致しました。さぞかし無茶苦茶な親と思いなされたと思います。これが親です。娘を思う親の気持ちです。


 とは言え、母親を早くに亡くし、男手で育った娘です。何かと至らぬことが多いかと思います。


 ご容赦下さいますこと、お願い申し上げます。ただ心は母親に似て、一点の曇りもなく優しさに満ちております。


 どうぞ、末永くおそばに置いて下さいますことを心から望んで止みません。


 どうかよろしくお願い申し上げます。


                   岩井新蔵拝 〟


 谷崎は座り直すと両手を付いて、遺体に深く頭を下げた。そのままはっきり声に出した。


「わかり申した。どうぞご安心下さい。この上ない妻を娶りました。共に幸せを築いて参ります」


 早苗の手を取ると新蔵の手と合わせ、その上から谷崎が両手で包むように握り締めた。


                      つづく

次回30回は6月3日木曜日朝10時に掲載いたします