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    護り屋異聞記 21.

 早苗は谷崎に会って以来、谷崎の優しい眼差しを思い出さない日は無かった。そしてなぜかせつなくなった。


 一度しか会っていないのに、気になって仕方がない。仕立物を縫いながら頭に浮かぶ。針を止めて溜息をついた。


 どうしたのだろう。会いたくて堪らない。しかし、会いに行く理由がない。気持ちを振り切るように縫い続けた。


 引き戸が開いて父が帰って来た。


「返事がないからいないのかと思った。お土産があるぞ。ほら卵だ。深川の八百屋の店先に出してあった」


 両手に持った風呂敷包みを上り口に置いた。首から背負った大きな風呂敷包みも外して置いた。煙草の葉である。


 最初に置いた小さな包みを開けた。中には卵が3個入っていた。良く割れなかったものだ。


「早苗、茶碗を持って来い。生で食べると良いそうだよ」


「お父上、お上がり下さい。今お持ちします」


 早苗はにっこり笑いながら立ち上がった。新蔵はその笑顔が見たかったのだ。それを見て嬉しくなった。


「どれ、頂くか。早苗お前のはどうした?」


「私は大丈夫です。どうぞ食べて下さい」


「おまえのために買ってきたのだ。食べなさい!」


 早苗の頭には、谷崎のにっこり笑った笑顔が思い出されている。せつなくなってきた。会いたい。


「どうした?悲しそうな顔をして。何か心配事か?お金ならもう心配しなく良いぞ。ほら今日も200文貰って来た」


「お父上、お身体大丈夫ですか?お無理をなさってませんか?」


「ははは、大丈夫だ。あの日の卵が利いたのだ。あれからこの通り元気だ。そういえば谷崎殿にお礼を言わなければならないな」


「そうですね。お家賃もお返ししなくてはいけません」


「なに、家賃をお借りしていたのか?早苗苦労かけたな。本当にすまない。ところでいくらお借りしている」


「はい、ひと月分の400文です。どうしてもいらないとおっしゃいまして、受け取って頂けないのです」


「それはいけない。早速お返しに行こう。早苗、5合徳利の酒を買って来てくれ」


「はい!すぐ買って来ます」


 早苗は嬉しそうに言う。谷崎様と会える。どう言うわけか胸がどきどきして来た。こんなことは初めてである。


 3月も末に近い暮6つ。日が大分延びて来た。外は薄暗くなって来た。岩井親子は谷崎を訪れた。


「失礼致します」


 入口で綺麗に整った女性の声がする。


「入られい」


 引き戸が開いて先日の女性が立っている。後ろに男が立っている。すぐに女性が挨拶をした。


「先日はありがとうございました。父がお礼を申し上げたいと申しましてお伺い致しました」


「お礼されるようなことはしておらぬが・・・」


 それを聞いて新蔵が前に出た。


「この者の父でござる。先日は色々お世話になり申した。おかげで元気になりました」


「何のことでござるかな?」


「貴重な卵を戴きました。あれ以来身体に力が宿りまして、今ではこの通りで歩いております」


「はは、恥ずかしい。手元に残っていたから差し上げたまでです。無礼なことを致しました」


「いや、とんでもござらん。恥ずかしながら、10年ぶりの卵でした。効果てきめん。病など逃げて行きおりました」


 新蔵は生真面目な顔に、精いっぱいの笑みを浮かべて言う。谷崎は返事に困って、


「さ、どうぞ。狭っ苦しいところですがお上がり下され」


「いや、ここで結構です。おかげで仕事が出来るようになりました。それでお借りしました家賃をお返しに伺いました」


「お貸しした覚えはござらぬ。それは何かの間違いです」


 新蔵は早苗を見る。早苗がびっくりしたような顔で、


「大家さんに伺いました。谷崎様にお立て替え頂きましたと」


「それは失敬。最近物忘れがひどくて。ご迷惑をお掛け致した。申し訳ない」


 と頭を下げる。新蔵は懐から、用意して来た半紙に包んだ2朱金(5百文)を出した。


「申し訳ないのはこちらです。ありがとうございました」


 新蔵は深々と頭を下げながら、両手で畳の上を滑らすようにして差し出した。


「何のおつもりですかな?先日早苗殿にはお話しさせていただきましたがね」


 早苗と谷崎が言うのを聞いて、名前を憶えてくれていたのだと早苗は嬉しくなった。


「どう言うことですか?」


 新蔵は谷崎と早苗を交互に見て言う。


「はい、伺いました。ご配慮のお言葉に感激致しました」


「感激などと言われては恥ずかしくなる。身共の軟弱な心根を助けて頂きました。ありがたく思っております」


 新蔵に向かって言う。早苗は座り直して、


「払えなくて待って頂くつもりで伺いましたところ、こちらの都合で勝手に払わせて頂いた申し訳ないとおっしゃいました。そして卵まで下さいました」


 新蔵は自分が恥ずかしくなった。妻や子に苦労のかけどうしで、それを世の中の所為にしていた。


 世の中にはこう言う御仁がいるのだと感じ入った。新蔵の目に谷崎が眩しく見えた。


「谷崎殿、お心深く染み入りました。おかげで元気になり働けております。その一部がこの家賃です。曲げてお納め下され。お願い申す」


「ははは、これでは切りがない。岩井殿、お近づきに一献やりますか?」


 谷崎はすくっと立ち上がり、台所の奥から5合徳利を出して来た。にやっと笑い、湯呑を二つ出した。


「お近づきの挨拶です。さ、どうぞ」


「ほ、これはかたじけない。では遠慮なく。うまい!」


 新蔵は久しぶりの酒である。そして思い出した。お礼のつもりで持参した酒である。


「谷崎殿、拙者も持参したのであった。少しばかりですがどうぞ」


「ありがたい!では存分に飲めますね。さ、どうぞ!」


 早苗はまるで蚊帳の外である。呆れた顔をして父を見た。


「早苗、気が利かないな!何かつまみを持って来なさい」


「はい、すぐ持って来ます」


 早苗は父の嬉しそうな様子に心が温かくなった。目の前の谷崎様も嬉しそうだ。小走りに自分の長屋に戻った。


 二人の目の前に、里芋に大根と人参の煮物と胡瓜等のぬか漬けが並んだ。


「早苗殿ありがとう。旨いね。貴女もおひとつどうぞ」


 谷崎がもう一つの湯呑を出した。


「わたくし飲めませんの。申し訳ありません」


 見ていた新蔵が、


「早苗、谷崎殿にお注ぎしなさい」


 それから一刻ほど酒盛りが続いた。早苗は酌をしながら二人の話を嬉しそうに聞いている。


 谷崎の部屋から明るい笑い声と、部屋の灯がほのぼのと温かく3人を包んでいた。空には満月が煌々輝いていた。


                      つづく

次回は3月30日火曜日朝10時に掲載します