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        護り屋異聞記 20.

「先生、お夕飯お持ちしました」


 入れ替わりに隣の女房が入って来た。


「すまんな、今日は特に腹が減ってな」


「今の人、今度引っ越して来た人ではないですか?」


「そうだ、隣の棟だ。知ってるのか?」


「井戸端で時々一緒になりますからね。もとはお武家さんのようです。立ち居振る舞いからして違います」


「ほう、そう言うものか。わしにはわからんが」


「お綺麗ですから、すぐわかります。先生のお知り合いですか?」


「いや、そうじゃない。初めて会った。家賃のことで挨拶に来た」


「そうでしょう。大分お困りの様子ですから。お貸しになったのですか?」


「そうじゃない。家賃を払いに行ったら払われていると聞いてお礼に来たようだ」


「噂では病身のご亭主と住んでいるようですよ」

先程は父上と聞いたようだったと思ったが、別に気にも留めなかった。


 早苗が長屋に戻ると父新蔵は寝床に半身を起こし、


「お帰り、腹が空いたな」


「お珍しいこと。体調が良いのですね」


 新蔵は妙に気になった。早苗が珍しく出かけた。しかも帰ると縫物の手を止めたままにし、なぜか落ち着かない。


 一刻程過ぎると再び出かけた。用は何だったのか、すぐに帰って来た。


 気になったが聞かなかった。聞いても何もして上げられないし出来ない。いつもと変わらぬ素振りをした。


「父上、これを見て下さい。卵ですよ」


 嬉しそうに明るい顔で言う。新蔵はその顔が卵より嬉しかった。


「頂いたのですよ。おかゆの卵とじにしますね」


「それはありがたいね。何年ぶりだろう?」


「さあ、いつでしたか忘れました」


 今日の夕飯は贅沢な卵とじのおかゆだった。しかも高価な卵を一人1個ずつの卵とじだった。


 新蔵はふうふうと息を吹きかけながらおいしいおいしいと連発しながら食べている。


 早苗は嬉しそうに父を見ながら自分も食べた。なぜか谷崎のにっこり笑った顔が浮かんだ。


 この日を境に新蔵の身体がだんだん良くなって行った。5日もすると布団をたたみ起き出した。


 何が変わったのか、病は気からと言うが早苗の笑顔が利いた。長年見たことが無かった。笑顔の無い娘だった。


 春の暖かさも心までぬくぬくと温かくした。その一方で娘の不憫さを思わずにはいられなかった。


 2年もそのままの無精ひげを剃り、髪を結い直し始めた。早苗が驚いた顔をしてそばに来た。


「父上、お身体大丈夫ですか?」


「うん、大丈夫だ。病は気からと言うではないか。八重(妻の名)が死んでから、お前に全ての苦労を押し付けてしまった。すまない」


 新蔵は後ろ手で髪を結いながら、頭を下げた。


「どうしたのですか?急に」


「これから、口入れ屋に行って来る」


「生活の心配はいりません。仕立て仕事で賄えます。それよりお身体を治しましょう」


「ははは、治ったよ。実はな、お前に怒られるが十日も前からお前の留守にこの辺りを歩いている。もう大丈夫だ」


「そんな・・・無理をなさってはいけません。源庵先生はいつも安静にするようにとおっしゃったじゃないですか」


「だがな、身体は正直なもんだ。いつの間にかせきが出なくなっていた。わしが思うに、気の病だったと思う」


「・・・・・」


 早苗は返す言葉が無く、父の顔をじっと見た。


「何をそんな心配そうな顔をする、半月前、あのおかゆを食べた時だ。にっこりとしたお前の笑顔がわしの目を覚まさせた。この通り治った」


 新蔵は両手を天井に向けて何度も突き上げて見せる。


「どうだ!元気いっぱいだ。わしもまだまだ見られるものだろう。では、出かけてくる」


 早苗は新蔵が角を曲がるまで引き戸を開けたまま、心配そうに見送っていた。


「力仕事は無理ですね」


 口入れ屋は新蔵を見ながらはっきり言った。新蔵はそんなことは無いと言いかけたが口入れ屋は遮るように、


「良い仕事がありますよ。慣れるまでの賃金は安いですが慣れると大工仕事並みの賃金が貰えますよ」


「おっ、それは良い。どんな仕事だ」


「その前にお聞きしますが、旦那の家族に労咳を患っている人はいませんか?」


「・・・いない!」


 うっ、と思ったが力強く返事した。


「では、紹介しましょう。ちんこきりです」


「なに!ちんこきり、そんな物騒なことは出来ぬ」


 以前の内職である。知らぬふりをして言う。


「勘違いしないで下さい。煙草の葉を刻む仕事です」


「そうか、びっくりした。それでは是非お願いしたい」


「じゃ、これから深川の越前屋を訪ねて下さい。木場の口入れ屋源蔵の紹介で来たとおっしゃって下さい」


 煙草屋では越前屋の名は通っていた。新蔵が賃粉切りをしていた頃、越前屋のこすりは有名であった。


 こすりとは髪の毛程に細く刻んだ煙草のことである。細く刻むほど柔らかな味になった。技術が難しく値が張った。


 木場の源蔵の紹介で来たと言うと番頭が出て来た。痩せて骨張った顔を見て、大丈夫かなと言う顔をして、


「賃粉切りをされたことはありますか?」


「こちらに越してく来るでは、内職として賃粉切りをしてました」


「それは、ありがたい。今人手が足りなくて困っていたところです。ちょっとこちらへ来て下さい」


 次の間へ通された。少し待っていると番頭が包丁とまな板を持って来た。まな板の上には煙草の葉が乗っている。


「早速ですが、刻んでもらえますか?」


 新蔵は葉を重ねて巻き、早速刻んだ。それを番頭が手にして目を細めた。


「ほう、なかなか良い腕ですね。今日から仕事して貰えますか?」


「是非そうさせて下さい」


 この日は大きな風呂敷包みを持ち帰った。帰ると包丁を研ぎ澄まし、深夜まで刻み続けた。早苗が心配して何度も止めるように言うがきかなかった。


 次の日、新蔵が越前屋に持って行くと100文の金が支払われた。半年ぶりの収入である。(1文=25円)


 以前は同じ量で80文貰っていた。気を良くして帰りは二倍の量を持ち帰った。


 娘早苗のにっこり笑った顔を見た。妻を亡くして12年になる。初めて見た笑顔だった。


 笑わないことを普通に思っていた。嬉しそうな笑顔を見て、嬉しい反面不憫になった。


 婚期を逸した原因は自分にある。病人の父を抱え、仕立て仕事で生活は汲々とし、笑顔の無い娘になっていた。


 そんな娘の笑顔を見た時、せつなくて胸を掻きむしられるような気持になった。


 このままではいけない。亡き妻にも申し訳が立たない。気持ちを奮い立たせた。


 不思議なもので、堰が止まった。立ち眩みも無くなった。


 深川の密集した長屋に比べ木場の貧乏長屋は、近くに空き家があるくらいの閑散とした長屋で空気は良かった。


 労咳と思い込んでいたが、喘息であったのだろう。動くほどに身体は楽になって行った。


                      つづく

次回は3月23日火曜日朝10時に掲載します