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       護り屋異聞記 19.

 井坂夫婦が長屋に戻らぬと聞いて、家賃の払いを止めた。いつ帰って来ても良いようにと谷崎が払っていた。


 その部屋に半月もしないうちに浪人親子が越して来た。父親は四十の半ばであろうか。


 娘が一人いた。三十路を越えて見えたが粗末な成りがそう見せていた。今年28歳になる。


 生活が苦しく、貧乏長屋を聞きつけて越して来たのである。父親に職が無く。娘の仕立て仕事で生活をしていた。


 浪人の名を岩井新蔵と言った。23年前に廃藩になり妻と子を連れて江戸に出て来た。


 剣術は凡庸であり、仕官など望むべくもなかった。しかし、気位は高く引く手あまたの土担ぎ人足等は絶対にしなかった。


 妻も同い年で23歳、娘は5歳であった。生活はすぐ困窮した。売れるものはすべて売った。両刀を残して。


 妻は呉服屋を駆け回り、仕立ての仕事を見つけて来た。安い仕立て代に、毎夜夜更けまで仕立てを続けた。


 無理が祟り、痩せ細り労咳を患い亡くなった。12年前である。娘は15歳になっていた。


 新蔵は妻の病状悪化に両刀を売り払った。しかし、すでに遅し。娘早苗を案じながらその手を握り死んで行った。


 早苗は8歳の頃から母より少しずつ裁縫を教わっていた。この年から母に代わって仕立て仕事を引き継いだ。


 新蔵は人が変わった様になった。それまでどうしてもしなかった土担ぎ人足の仕事をするようになった。


 しかし、3年もしないうちに労咳を患っていることを知った。体力がみるみる無くなっていった。


 自然と休む日が多くなり、仕事を失った。自暴自棄になり酒に逃げたがその日だけで我に返った。金は底をついた。


早苗の仕立賃だけでは食べるのが精いっぱいで、家賃までは払えなかった。食事を節約するしかなかった。


 早苗はみるみる痩せた。美人なだけに人目に付いた。見兼ねた隣部屋の浪人が賃粉切りを紹介してくれた。


 新蔵は懸命に励んだ。おかげで生活は窮乏したが、どうにか家賃まで払えるようになった。

 

 それから10年が過ぎた。父陽介は体力がさらに弱り、賃粉切りの仕事は半分程の量しか出来なくなった。


 生活を考えると家賃の安い長屋に移るしかなかった。それがこの貧乏長屋に引越して来たわけである。


 ひと月近くなり、家賃が払えない。前家賃を払ったのが災いした。10日程待って貰いたいと大家を訪ねた。


 意外な返事が来た。


「来月分まで頂いてる。心配しなくても良いよ」


「えっ、どなたからですか?」


 越して来たばかりで近くに知り合いなどいない。居てもそんな奇特な人がいるはずがない。


「谷崎様とおっしゃってな。この長屋に住んで家賃に困っていると、先生がお立て替え下さる」


「どちらにお住まいでございますか?」


「隣り棟の長屋だよ。右側の三番目が先生の部屋だ」


「ありがとうございます。これから伺ってきます」


「今は、いらっしゃらないよ。夕7ツ半過ぎないとお帰りにならないようだね」


 早苗は夕7ツ半を少し過ぎた頃、谷崎を訪れた。


「ごめん下さいませ」


 引き戸を小さく叩きながら、訪うた。


「どなたかな?入られい」


 戸が開いて女が入って来た。谷崎はあっと驚いた。すらりと、見るも美しい女が立っている。


「岩井と申します。お家賃を御立て替え頂きましてありがとうございました」


「岩井さん?」


「はい、隣の棟左奥の岩井新蔵でございます。父が臥せっておりますので、代りにお礼のご挨拶に参りました」


「井坂殿の後に越してこられた方か。余計なことと思ったが、余分な金が入ったものだからついでに払っただけだ」


「縁もゆかりもございませんのにありがとうございました。実は先程、家賃を少し待って頂だこうと大家様を伺いましたところ、谷崎様から頂いたとお聞き致しました」


「今も言ったように、余分な金があると飲んだり遊んだりでろくなことにならない。自分の為にしただけだ。気にせずとも良い」


「いいえ、とんでもありません。本当に助かりました。月末迄にはお返しに上がります。それまでどうぞよろしくお願い致します」


「それは自分のために出したものだ。返されると困る。それは無しにしていただきたい」


「そんな・・・」


「困った時はお互い様。酒や遊びに身をやつさなくて済む。お礼が言いたいのはこちらの方だ」


「申し訳ありません。お心、身に染みてございます」


 早苗は人の情けを初めて知った。目頭が熱くなってきた。涙が込み上がってきた。それを見ぬふりをして、


「先程、父上が臥せっておられると聞いたが、ご病気か?」


「はい、仕事の無理が祟って臥せっております」


 早苗は労咳とは言えなかった。


「それはいかんな。丁度良いものがある。持って行きなさい。さっき貰って来たものだ」


 火鉢の横の盆から、卵を2個持って来て早苗の手に渡した。落とすと割れるので自然と両手で受け取った。


「返す返すもありがとうございます」


 俯いたまま言う。早苗は谷崎を見ることが出来ない。


「さ、持って帰って食べさせて上げなさい」


 早苗は両手に卵を持っているので涙をふくことも出来ない。


「そこは開けたままで良いよ。早く食べさせて上げなさい。元気が出るよ」


「ありがとうございます。失礼致します」


 早苗は顔を上げて、谷崎の顔ををしっかり見つめて出て行った。歩きながら胸がいっぱいに熱くなった。


                       つづく

次回は3月2日火曜日朝10時に掲載します