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    40.心の内

 新居の夜は、慎之介の帰宅で明るく暖かい光が外まで漂っていた。時折、小太郎の笑い声が聞こえてくる。綾乃も小太郎も顔色さえ違って見える。生き生きと輝いていた。


 二人には長い長い三日間であった。母子して父の帰りを待ちわびていた。今、その団欒の最中にあり、夜空には満月が笑っていた。


 夜も更けて、小太郎は笑いつかれて、自室で眠りについた。


 居間に慎之介と綾乃は、熱めのお茶を啜りながら向き合って座っていた。綾乃は二人になると、幸せのひとときから身が覚めたように、慎之介を心配そうに見つめた。


 見つめられた慎之介は、意を決したように口を開いた。


「綾乃、心配させたようだ。すまない。秘密にするつもりでいたことが、却って心配させてしまったようだ。今から全てを話しておく」


 お茶を一口飲むと、深く息をして、思い言ったように言う。


「実は、父が自害した相手と、試合することが決まった。十二月十五日、郡川藩江戸屋敷で行う」


 慎之介は静かに言葉を続ける。


「指南役を決める腕試しであるが、私はこの時を待っていた。父の無念を晴らしたい。仕官を断ったのも、それが理由だ」


「その大事な目的を前にして、私は不覚にも人を愛してしまった」


「お前に初めてあった時、一目で好きになってしまった」


「だが、好きになってはいけない。そんな浮いた気持ちで仇が打てるかと、自分を戒め諦めようとした。しかし、心の内はどうにも止められなかった」


「さらに小太郎のことだ。初めは不憫に思った。しかし、今は違う。可愛いのだ。目の中に入れても痛くないと言うが、可愛くて愛おしい。小太郎の為なら何でもしてあげたいと思っている」


 「お前と小太郎を幸せにしたい。そう思った時、無謀にも結婚を決意した。嬉しかったことは、お前が承諾してくれたことだ」


「しかし、自分に万一のことがあれば、お前と小太郎を不幸にしてしまう。実はそのことで昨日まで悩んでいた」


 綾乃は慎之介をじっと見つめていた。そして、その言葉が終わるやいな、


「その時は、私も生きていません」


 きっぱりと言う。武士の娘である。もしもの覚悟は出来ていた。


「早まったことを言うな、小太郎はどうする」


「小太郎は武士の子です。八歳になります。一人で立派に生きていきます」


「綾乃、話は最後まで聞きなさい。昨日までは、万一のことを考えた。察しの良いお前のことだから、きっと、何かを感じているだろうと心配だった。やはりそうであったか。それは私の未熟さから来るものだ。すまないと思っている。万に一つも負けることは無い。必ず仇を討つ。ましてや試合は木刀で行う。死することは無い」


「大事な話はここからだ。試合に勝てば、指南役の話があるだろう。私にそのつもりは無い。但馬屋殿の温情、坂江藩の指南役辞退の件もあり、それらを無にすることは出来ない」


「いずれは武士も捨ててもいいと思っている。こうして、三人で暮らしてみて、夢と希望に満ち、温かく楽しい暮らしは、掛け替えが無い。どんなことがあっても守る。綾乃と小太郎を幸せにする。もっともっと幸せにする」


 綾乃は、穏やかな顔になり、笑みを浮かべて、


「はい」


 と顔を両手で覆う。


「今日はもう遅い、床を頼む」


 いつものことであるが、慎之介は別々に敷かれた一方の床に入った。どうも寝付けない。隣を見ると、綾乃が泣いている気配がする。慎之介は、綾乃が愛おしくなった。


 慎之介は起き上がると、綾乃の床に入って行った。綾乃は両手を顔に覆い、両肩を小さく震わせながら、声を押さえて泣いていた。


 慎之介が後ろから抱きしめると、綾乃は向き直り、慎之介の胸に顔をうずめて、小さく声を上げて泣いた。


 慎之介は、綾乃の髪をやさしく静かに撫で続けた。


 慎之介は、そうするうちに、綾乃が愛おしくて愛おしくて堪らなくなった。力いっぱい抱きしめた。


 次の日、慎之介は坂江藩留守居役井上忠正に会った。


忠正はおおよそ察しは付いていたが、そういう事情があったのかと驚くと同時に、成就後は改めて相談したいと言う。


 その足で、但馬屋伝兵衛に会いに行った。


 但馬屋は、驚くと同時に、ご成就お祈りいたしますと丁寧な挨拶し、熨斗目を含めて全て一式、ご用意させていただきますと申し出た。

  41.待ち伏せ

 12月15日、暁7つ(午前4時)


 いつもより、一刻早く、慎之介は起きた。居間へ入ると、行灯が灯され綾乃が緊張気味に挨拶をする。


「おはようございます。お茶をご用意いたします」


 綾乃は慎之介の起きて来るのを、居間で待ち控えていた。両手をついて挨拶をすると、直ぐに立ち上がり、熱いお茶に梅干しを添えて持って来た。


 湯気の立ち上がったお茶に梅干しは、身体を一気に活気づけた。


「綾乃、水垢離をして来る」


「はい」


 慎之介は下帯一つになり、肩から交互に20数杯の水を浴びた。空気の冷たさに、両肩から湯気が立ち上がった。


 綾乃は傍に着替えを持って立っている。


 慎之介は、その場で着替え、清めた身体で半刻程、素振りを繰り返した。


 綾乃はその濡れた下帯を持って部屋に戻った。


 慎之介が、居間に入ると、小太郎が緊張した面持ちで挨拶をする。子供ながらにも、何か感ずることがあるのだろう。


 慎之介と小太郎の朝食は二膳作りとなり、一の膳は、打ち鮑、勝ち栗、昆布。二の膳は、鯛の尾頭付きに煮しめ。大根と人参を紅白の短冊にした酢の物。それに大根の味噌汁にご飯。縁起物が用意されていた。


「いただきます」


 慎之介に二人とも合わせて言う。


慎之介は、古風な出陣膳に嬉しくなった。


「小太郎、一の膳から食べなさい。良く噛むのだぞ」


「はい」


 小太郎には、初めはご馳走に見えたが、硬くて少しもおいしくない。


「父上、お腹いっぱいなって来ました」


 慎之介は小太郎の思うことは直ぐわかる。それは食べなくて良いと言うのを、期待しているのだ。


「そうだな、大人の仲間入りはまだ少し早かったかな?」


「えっ、大人になれるのですか?」


「そうだ、酒のつまみだからね」


「おいら、食べます。早く父上のようになりたいのです」


「全部食べなくて良い。打ち鮑、勝ち栗、昆布の順に少しずつで良い。どれも良く噛むと味が出て旨くなるぞ」


「どうして順番があるのですか?」


「打ち勝ち喜ぶとなるからだ。打ち鮑は敵陣へ打ち出る。勝ち栗で勝つ。昆布で喜ぶとなる」


「そうか、おいらが強くなるための食べ物か!おいら食べる」


 綾乃は、慎之介をじっと見つめた。口に出したくても出せない。今日のことは慎之介から固く口留めされている。


「そのくらいで良いよ。味噌汁が冷める。ご飯を食べなさい」


 と言い、綾乃に向き直ると、綾乃は下を向いて耐えている。隠すようにしているが、目は赤く潤んでいる。


 食事が済み、お茶を飲みながら慎之介は何気なく言う。


「小太郎、父上はこれから大事な用で出かける。留守を頼むぞ」


「綾乃、着替えを頼む」


 慎之介と綾乃は次の間へ入って行った。


 綾乃は半裃への着替えの全てを、泣きたい気持ちを押さえて全てを手伝った。


「綾乃、帰ってきたら三人で温泉にでも行って、ゆっくりしよう」


「はい」


 綾乃は両手で顔を押さえる。


 慎之介は、明け六つ半(午前7時)家を出た。


「父上、早く帰って来て下さい。おいら何だか寂しい」


「出がけにそんな事言うものではありません」


 綾乃は、自分の泣きたい気持ちを押さえて言う。


「小太郎、出来るだけ早く帰って来るよ」


 いきなり小太郎を抱きかかえて、頭を撫でる。


 小太郎を降ろすと、今度は綾乃を両手で抱き上げた。


「綾乃、にっこり笑ってごらん」


 慎之介はにこやかに言う。


「あ、母上、恥ずかしがらなくて良いよ。おいら誰にも言わないから、大丈夫だよ」


 綾乃は小太郎の前で恥ずかしいのか、抱かれたまま両手で顔を覆う。小太郎の前で初めてのことである。


 慎之介は半刻程歩いた。ここから先は、幸橋まで一本道である。暫くは、民家一つ無い林道が続く。


 突然、慎之介の前に、ぱらぱらと、5人が立ち塞がった。見るからに浪人者である。待ち伏せしていたのである。覆面などしていない。


                     つづく

   42.一直線

 浪人者は寄せ集めであろう。立ち位置の事前の決めは無いようだ。幅一間半程の道幅に三人が立ち塞がった。


この道幅に三人は多すぎる。後の二人は遠巻きに後ろへ回った。全員無言である。


 多勢の余裕に隙が出る。五人揃って刀を抜いた。瞬間!慎之介は抜き打ちに正面へ飛んだ。浪人の右手首が斬り落ちた。


ほぼ同時に、その左側浪人の左手首が斬り落ちた。そのまま慎之介は、右側浪人の正面に正眼に構えた。


 慎之介の放つ殺気は、心の臓を凍らせた。浪人は、恐怖に顔を引きつらせ、少しずつ後ろへ下がって行く。後ろの二人も同じく少しずつ下がって行く。


「何をしている!殺れ!早く殺れ!」


 木陰から、琢磨が出て来た。


 浪人は格段の腕の違いに、戦意を無くしていた。その言葉に救われたように、三人は脱兎のごとく逃げた。


怖気付いた琢磨も逃げようとした。慎之介は駆け寄り、琢磨の襟首を掴んだ。


「許してくれ!この通り、刀は抜けない。無腰と同じだ。頼む!許してくれ」


 慎之介は無言のまま、琢磨の胸元へ白刃を付けた。


「許してくれ!お願いだ!父の指図だったのだ。お願いします。許して下さい」


 膝まづき両手を合わす琢磨には、武士の誇りは露ほどもない。小水を洩らしたのか、袴が濡れ地面が濡れた。


「二人を介抱してやれ」


 慎之介は喉から押し殺したような声で言う。極限の緊張は喉を嗄らす。


 待ち伏せは、予期していたとは言え、琢磨の不甲斐なさに武士の悲哀を感じた。これでも、郡川藩の江戸指南役をしていたのである。


 昨今、武士の精神性が問われるようになったが、情けないことである。世の中が平和でありすぎる。関ヶ原の戦いなど、遠い昔のことである。


 慎之介が立ち去ると、逃げた三人が戻ってきた。どこかで見ていたのであろう。


 琢磨は腰を抜かしたのか、座り込んだままだ。三人は急いで二人の血止めをした。


 この二人は五人の中で一二を争うほどの腕前であった。痛みを堪え、肩を借りて立ち上がり、琢磨を囲んだ。


「話が違う。騙し打ちに手首を切られたと言ったな、そんな卑劣な奴がなぜ貴様を生かしておく?遠くで見ていたが、情けなくも、命乞いをしている貴様を見逃した。騙し討ちにした貴様をだ」


 言葉を継ぐように、もう一人が言う。


「我々とは腕が違い過ぎる。手首を切るなら、所構わず袈裟に切った方が早いし、効果もある。又、はるかに容易い。奴はそれをしなかった。我々は五人もいるのにだ。尋常の腕ではない。しかも、襲った我々をわざと見逃した。本来なら五人の命は無い」


 もう一人が言う。


「相手が強いから、騙し討ちをした卑怯な男だと言ったな。この嘘つき野郎!約束の半金を出せ」


「出さない!殺す約束だ。殺してないのに出す必要は無い」


 琢磨は胸の財布を押さえる。憤怒した浪人達は、琢磨を代わる代わる殴りつけ蹴りつけた。


「止めてくれ!金は出す。ここにある」


 琢磨は呻きながら財布を出す。中から切り餅二つ、合わせて五十両出て来た。半金十両の五人分だ。


「おい!明日、お前の屋敷へ治療代百両貰いに行くぞ!用意しておけ。いいな!」


 琢磨は、しまったと思った。居酒屋で人伝手に集めた浪人と思っていたが、居所を知られていたのだ。一生揺すられると思い、父伝九郎の叱責を恐れ、


「いや、それには及ばぬ。明日、例の居酒屋へ持参する」


 琢磨は、蹴られ殴られた苦痛からの中から絞り出すように言う。


「よし、わかった。来なかったら屋敷へ行くぞ。良いな!」


 浪人達は琢磨を残して、怪我の二人を庇うようにして立ち去った。


 慎之介は、坂江藩道場へ立ち寄った。幸い、自主的朝稽古は終わって誰もいなかった。


 自室へ入ると衣服を検めた。返り血は無かった。下帯一つになり、井戸端へ行き水垢離を始めた。雑念を飛ばすかのように何度も何度も両肩から水をかぶった。冷たさは感じなくなった。同時に無心になっていた。


 自室に戻り、衣服を今一度検め、着衣した。慎之介の身体中に血がたぎり、かーっと熱くなった。


 慎之介は一直線に郡川藩へ向かった。


                     つづく

次回最終回は11月28日月曜日です。