Shopping Cart
Your Cart is Empty
Quantity:
Subtotal
Taxes
Shipping
Total
There was an error with PayPalClick here to try again
CelebrateThank you for your business!You should be receiving an order confirmation from Paypal shortly.Exit Shopping Cart

    28.指南初稽古

 その言葉をどんなに待っていたことか。嬉しかった。溢れた涙を拭きもせず、その顔を慎之介の胸にうずめた。小さな声で、


「私も好きです」


 綾乃は言った後で、気が遠くなるようだった。身体の重心が崩れて行くようで、立っていられなかった。慎之介は、崩れゆく身体を支えるように、強く抱きしめたが、よろめいて二人は、土間上がり口に座り込んだ。その音を聞いて、小太郎が目を覚ました。


「母上!どこですか?おじちゃんは?」


「ここですよ!おじちゃんをお送りするところですよ」


「まだ帰っちゃだめだよ!」


「小太郎、今日はもう遅いから、また来るよ」


「おじちゃん!だったら泊まってよ。おいらと寝ようよ」


「そうだね、ありがとう。でも、明日が早いから、今度そうするよ」


 慎之介は、言った後で大変なことを言ってしまったと思い、おもねるように綾乃を見た。


 綾乃も思わず慎之介を見た。そして、うつむいた。思わぬ会話の展開にどきどきした。


 小太郎が起き上がって来た。


「ずるいよ!おいらに黙って帰るなんて!」


「ごめん、ごめん。また、凧揚げしようね」


「いつ?おじちゃん、今度いつ来るの?」


「四日後になる」


「えっーどうして?明日はだめ?」


「小太郎、無理を言ってはいけませんよ」


「でも、どうして四日も待つの?どうして?」


「おじちゃんね、明日からちょっと遠い所へ行くんだよ。だから、帰ってくるのが四日後なんだ。四日後の夕方来るね」


「そうか、わかった。必ずだよ。おいら、待ってるからね」


 帰りながら、慎之介の心はほのぼのと温かかった。自分を待ってくれてる人がいる。人間の幸せとは案外単純なものかも知れない。


 夜明けにはまだ早い暁七ツ、慎之介は、道場奥の寝所を出て、水垢離をした。


 稽古着に着替え、まだ月明かり差す薄暗い道場に入り、素振りを始めた。


 千回で息が上がった。完全に鈍っている。しかし、休むことなくそのまま、関口流基本の形を連続して行った。


 半刻ほどして高窓から薄日が射して来た。夜明けだ。


 今日は十日。昨日、留守居役井上様に挨拶をすると、今日の朝稽古に藩士を集めると言う。江戸屋敷のみだから少なく、三十名程だと言う。朝稽古は常時二十名程参加している。今日は非番の者も含めての人数である。


 江戸屋敷指南役は、半年ほど空席になっていた。


 半年前、坂江藩指南役が病で急死を遂げた。急遽、その長子である江戸指南役滝口兵馬が、坂江藩に呼び戻された。


 慎之介の関口流披露目の時。藩主の横で微動すらせず、慎之介の動きを注視していたのが、その指南役滝口兵馬。藩主に問われたとき、慎之介を絶賛した。


「おはようございます」


 見ると五人の藩士が、それぞれ手桶と雑巾を持って、整列して挨拶をする。


「先生、これよりお清めの掃除を致します。どうぞ、控えの間へお願い致します」


 慎之介はひとまず、控えの間へ入る。


 ほどなくして、お茶が出された。


 四半時して藩士が呼びに来た。


「先生、ご用意出来ました。お越し下さい」


 道場に入ると、三十名程が整列正座して待っていた。案内されるまま上座に座ると、その案内役が、


「一同礼!」


 と号令する。全員深々と両手をついてお辞儀をする。


「直れ!」


 さっと全員が姿勢を正す。


 案内役が、


「先生、お願い致します」


 慎之介は立ち上がると、


「早水慎之介でござる。今日より、関口流をご教授致します。日頃の剣術に居合と組打ち、そして、耳慣れないと思いますが、拳法を加えたものです。いかなる場合にも、対応が出来る剣術です」


「関口流は、平時も戦時も関係ありません。武士としての、魂の昇華を学ぶものです。知力と活力を、高める剣術です」


 その時立ち上がった者がいる。


「では、先生!五人で同時に立ち向かって来られても大丈夫ですか?」


 見れば見覚えがある。先程のお清め当番である。


「簡単です。逃げるのです」


 と慎之介はにやりと笑う。


「と言っても、皆さんは納得しないでしょう。それでは、これより試して見ましょう」


 慎之介は全員を壁伝いに下がらせる。そして、道場中央に、木刀を片手に立つ。


「その五人出て来なさい」


 最初から計画済みであったのであろう。木刀を手に五人が出て来た。


 なるほどと慎之介は思った。その五人は自信に満ちた顔をしている。


「私は、ここに立つ。それぞれ好きな位置に構えなさい」


 五人は慎之介をぐるりと囲んだ。


               つづく

   29.卑怯とは

 五人は、慎之介の正面を避け、ほぼ等間隔に構えた。木刀とは言え、打ちどころに因っては死を招く。若いと見て制裁のつもりであった。しかし、慎之介の放つ無言の圧力に、身体が硬直した。真後ろの藩士ですら、恐怖に硬直した。


 それでも、五人に気が満ちた時、慎之介は前に飛んだ。瞬間、前二人の木刀が床に叩きつけられた。いつ翻ったか、斜め後方と真後ろ二人の木刀も、上下に撥ね飛んだ。同時に五人目の藩士の斜め頭上に、慎之介の木刀が寸止めされていた。


 この間一瞬のことであった。


 道場内は凍りついた。息が詰まりそうだった。囲んだ五人には、何が起きたか理解出来ないようだ。じーんと手のしびれが心地良い。飛ばされた木刀を拾いもせず、突っ立ったままである。寸止めされた藩士でさえも、木刀を正眼に構えたまま動けずにいる。この間、慎之介は一言も発せず。


 慎之介は、寸止めした木刀を片手下げにすると、


「さ、皆!元の位置に戻られい」


 慎之介の言葉に、道場内が息を吹き返したようにざわめいた。五人は元の位置に着座した。

 慎之介も着座した。そして、今起きたことが何事も無かったように、先程の囲まれたときの話を続けた。


「五人はもちろん、二人以上の対手には逃げることが一番です。それは卑怯ではない。卑怯は一人に二人以上で向かう対手の方である」


「しかし、やむを得ぬ時がある。ではどうするか?それが関口流です」


 道場内の空気が一変していた。藩士は一言一句洩らすまいと、目を輝かせて聞いている。


 ここで慎之介は、道場壁の序列札に目をやり、筆頭の名を呼ぶ。


「永井誠一郎殿!」


「はい!」


 永井が立ち上がる。先程、案内役をした男である。


「永井殿、皆の素振りが見たい。五、六人ずつ見せてもらいたい」


「先生、江戸屋敷内は五班に分かれております。一斑は六,七名です。班ごとにご覧いただいたらいかがでしょうか?また、只今ご教授いただきました五人が、班長を担っております」


「わかりました。では、班ごとに順次見せて下さい」


 永井は、班ごとに道場壁に沿って着座をさせる。


 一班から班長の合図のもと、揃って素振りを始めた。


「止め!合図はいらない。各自自由に素振りをすること」


 慎之介は言い放った。


 半刻程で、各班、順次素振りを終えた。


慎之介は、全員を見渡し、柔らかに言う。


「今日から、早速、やってもらいたいことがあります。各自、素振りの速さを倍にすること。又、素振りの回数を、日頃の倍にすること。今日から、これを実行してもらいたい」


 さらに続けた、


「各班長は、この二点、責任をもって指導されたい」

 

 

 診療所は本所だけでなく、周辺の地域にも名が知れ始めた。開院を待つ患者が日ごとに増えていく。それでもお邦の母は、夫婦で今日も一番乗りである。


 今日は三日目である。晋作は、慣れた手つきではあるが、ゆっくりそっと包帯を解く。包帯がかなり緩くなっている。するすると解けていく。


「あら!腫れが引いている!先生!腫れが引いています」


 母親は、余程嬉しかったのだろう。涙声になっている。側にいた父親もうれし泣きをしている。母親は晋作を崇めるように見て、


「先生さま、ありがとうございました」


 晋作は先生さまになった。


「お母さん、まだ直ったわけではありません。腫れが引いただけですよ。これからが大事です。痛みはありませんか?」


「いいえ、ありません」


「それは良かった。動かさなかった証拠です。これからも動かさないように気を付けて下さいね。それでは、これまでと同じように、当て木で固定しておきます」


「先生さま、おらはこれからどうすれば良いですか?」


「さまはいりません。お父さんはこれまでと同じように、お母さんの助けをしてあげて下さい」


「お母さん、今度は五日後に来て下さい。腕は動かさないようにして下さいね」


 おたふくは、相変わらず混んでいた。源太と晋作を、目にしたお邦は大声で、


「いらっしゃい!ここに来て。ここに座って」


 いつもながらに席を確保してある。狭い店だからその日によって座る席が違う。二人の注文も聞かずに調理場へ。直ぐ戻って来て、お銚子二本と牛蒡のきんぴらを二人の前に置く。


「今日はありがとう。おっかさん凄く喜んでた。おとっつあんがね、さすが違う。さすが違うと晋作さんのことべた褒めよ。今まで自分以外の人は、褒めたことないのよ。大雨でも降るかしら」


「これ、私の気持ち。冷酒よ!膳は急げというでしょう。燗してる時間ないの」


「おいおい!冷は望むところだが、善違いじゃないのか!」


 晋作がやんわりたしなめると、


「わかっているわよ!つべこべ言わないの!」


 お邦が晋作に酌をする。


「あーあ、俺は飯食いに来たんだぜ、戯言を聞きに来たんじゃないや」


 源太の投げやりの言葉に、


「はい!せんせ!妬かないの」


 お邦は源太に酌をする。


「お待たせ!」


 源太は素早くお猪口を置いて、湯呑を差し出す。


「あーら、妬け酒かしら、ごめんなさいね」


      つづく

       30.恋しさの三日目

 空高く、風少しあり、凧揚げには絶好の日和。いくつかの凧が、浮かぶように揚がっている。

 小太郎は何度も凧を引いて走るが、どうしても凧は高く揚がってくれない。走りを弱めるとへなへなと下降を始める。小太郎は座り込んでしまった。でも諦めたわけではない。


 走っている間は、高くはないが凧は揚がっている。どうして、もっと高く揚がらないのだろう。一生懸命考えるが、どうしてもわからない。


 慎之介と一緒の時は、凧に引っ張られて手が痛かった。凧糸が足りない程高く揚がった。凧は簡単に高く揚がった。


 くやしい。明日は慎之介が来る。高く揚がったところを見せたい。立ち上がると、小太郎は又走った。それから、何回か試みたが駄目だった。


「ただいま!」


「お帰りなさい」


 綾乃は縫物をしながら微笑んだ。


「母上!明日はおじちゃん来る日だよね」


「そうですよ、凧揚げするのでしょう」


「おじちゃんと一緒の時は、高く揚がったのにうまくいかないんだ」


「あら!どうしてかしらね」


「二人でないと駄目みたい」


 綾乃は手を休めて、小太郎を見る。


「おじちゃんが凧を持って、一緒に走ってくれなきゃ駄目なんだ」


「そう?一人じゃ出来ないものなのね」


「高く揚げようと思ったらね。そうじゃなかったら簡単だよ!」


「あら、そうなの?難しいのね」


 綾乃は慎之介のことで頭がいっぱいになった。縫物を置くと、遠くを見つめるように天井を見た。


「母上!お腹空いた!」


「おむすび作って置いたわよ!」


 綾乃は立ち上がると、小皿に二つのおむすびを持って来た。たくあんが添えられている。


「あっ、おこげのおむすびだ!」


「そうですよ、お昼の残りですからね」


 子供のお腹の空くのは早い。小太郎はもう二つ目のおむすびを食べている。


「よく噛んで食べなさい!」


 返事は無い。夢中で食べている。


 綾乃は、又、慎之介のことを考えていた。顔を胸にうずめたあの晩のことを思い出し、胸が熱くなった。ぽーっとしていると、


「母上!もうありませんか?」


「あっ、はい!ごめんなさいね。夕ご飯早くしましょうね」


「何が良いかしらね?」


 綾乃の頭の中は、明日の夕ご飯のことを考えていた。


「母上!おいら何でも良いよ」


 綾乃はうわの空であった。縫物をしていたことさえ忘れている。何を作ったら喜んでいただけるかしら。


「母上!何でも良いですよ!」


 小太郎は、なぜか反応の薄い母親に、もう一度言った。綾乃は、はっと気づいたように、


「はい!お豆腐にしようかしらね」


 今晩のことが先だった。綾乃は母親に戻った。

  

 坂江藩江戸屋敷道場二日目は、非番を除き藩士二十一名。活気に満ちていた。


 慎之介は、上座の指南役席に殆ど座らず、今日は藩士を自由に組ませ自由練習とし、その間を縫って回るように一人ずつ指導して行った。


 まだ二日目というのに、坂江藩だけでなく、他藩にも知れ渡っていた。


 当時、指南役の指導は個別に行うことは殆どなかった。高弟に任せた。その高弟も対戦による指導が殆どであった。


 慎之介の指導は具体的に教えた。振りが遅い、肘だけでなく肩も十分に使えとか。鍔がある、右袈裟に切れ等と竹刀を使っての練習にもかかわらず、具体的な指導であった。


 藩士は指南役が、いつ自分の所へ来るかも知れず、緊張と活気に満ちた。江戸屋敷道場では、ここ数年来なかったことである。


 道場の朝は早いが、午後は昼八ツで終了とした。


 慎之介は、水を浴びると自室(寝所)へ入った。入るのを見ていたかのように、襖の向こうで呼びかける。


「先生、お茶が入りました」


 藩士の一人がお茶を持って来た。


「先生、お疲れ様でございました」


「ありがとう。丁度喉が渇いていたところだ、貴殿の名前は?」


「はい、三班の柿崎一之介と申します」


「今日は夕七ツまで控えておりますので、ご用がございましたら、手を叩き下さい。尚、ご夕食は屋敷から夕七ツ半に届きます。又、明日から朝昼食供届くことになっております」


「それはありがたい。どなたのご指示かな?」


「はい、留守居役井上様のご指示でございます」


 その時、


「失礼いたします」


 序列筆頭の永井が入って来た。


「お疲れ様でございました。本日も御指南ありがとうございました。ところで突然ですが、先生の歓迎会を開くことになっております。ご都合の日はございますか?」


「恐縮ですね。しかし、決まっているのならお言葉に甘えます。では、今度参りますのが十九日ですので二十日はいかがですか?」


「かしこまりました。よろしくお願い致します」


永井と柿崎は挨拶をして出て行った。


 時は過ぎ、届けられた夕食も済み、がらんとした六畳間に一人。物音一つしない。なんだか物悲しくなってきた。先程までの道場の喧騒が嘘のようである。


 慎之介はすることもなく胡坐に座り、目を瞑った。瞑ると綾乃の憂いに満ちた優しい顔が浮かぶ。せつない想いが胸を締めつけた。


 剣客としては強靭な心をもっていたつもりだったが、想う心の修業は未熟だった。


 明日は会えると言い聞かせ、その心を抑えるしかなかった。


                      つづく

次回31回は9月5日月曜日です。


3分小説番外編【風邪の引き合わせ】5回連載中です。