Shopping Cart
Your Cart is Empty
Quantity:
Subtotal
Taxes
Shipping
Total
There was an error with PayPalClick here to try again
CelebrateThank you for your business!You should be receiving an order confirmation from Paypal shortly.Exit Shopping Cart

     25.綾乃の夢

  綾乃は枕屏風を二つ折りに外すと、手際良く小太郎の床を敷いた。眠りたくなかったのだろう。座りこんだまま、眠ってしまっている。慎之介がそっと抱えると、ぱっと目を開けて、


「おじちゃん、凧は?」


 寝ぼけ眼で言う。


「ここにあるよ」


 小太郎は、安心したように、又眠ってしまった。


 凧が欲しかったのだろう。子供ながらに母のことを考え、言い出せなかったのである。


 慎之介は小太郎を抱きかかえ、そっと床へ寝せた。


 狭い四畳半の部屋を凧を持って、嬉しそうに飛び回っていた小太郎が、不憫でならない。穏やかな顔をして、すやすやと眠っている小太郎を見て、慎之介はせつなくなった。幸せにしてあげたい。心からそう思った。


 綾乃は小太郎に、そっと布団をかけた。


 慎之介は、綾乃に何か言いかけて止めた。


「慎之介様、ありがとうございました。今、お茶をご用意致します」


 流しへ向かう綾乃の後姿を見て、胸が締めつけられるようであった。慎之介は部屋の中央へ座を移した。


「どうぞ、お茶が入りました」


「ありがとう。綾乃さんも一緒に飲みましょう。少しお話ししたいことがあります」


「はい、では、用意して参ります」


 綾乃は自分のお茶を用意しながら、何を話されるのかと不安が過ぎった。先日、士官はされないとの話は伺ったが、何か正式な変化があったに違いない。


 改めて、仕官が決まったのかも知れない。仕官となれば正式にその藩に迎えられる。江戸を離れると言うお話だろうか。


それは嫌です。綾乃は涙が込み上げてきた。


「綾乃さん、どうかしましたか?」


「いいえ、今。行きます」


 綾乃は、急いで袂で涙を拭き、慎之介の前に座った。覚悟はしていた。いずれはそんな日が来る。思いたくないが。悲しい予感がしていた。顔を上げることが出来なかった。


「綾乃さん、私は小太郎が可愛くてならない。これからも、このように夕ご飯を一緒に食べたいと思います。厚かましいお願いですが、時々はご一緒させていただけませんか?」


 綾乃は嬉しくなった。慎之介様が、来られなくなる話をされると思っていた。それは違った。おかげで苦しかった胸のつかえが、すーっと下りたようだった。


でも、お出でになる理由が、なぜ、小太郎なの?私のことは少しも無いのかしら?ちょっぴり恨みがましい気持ちになった。しかし、口から出た言葉は、


「是非、お出で下さい。ささやかなお食事しかご用意できませんが、小太郎がどんなにか喜ぶことでしょう」


 慎之介は、顔をぱっと明るくして、


「ありがとうございます。では、遠慮なくそうさせていただきます」


 慎之介は、懐から懐紙に包んだ金子を綾乃の前に出した。この金子は、坂江藩よりお礼として出された十両である。今日はそのつもりで、初めから用意して来たのである。


「失礼ながら、些少ですが、これは私の食事分です。もちろん、当座の分です」


「いえ、それは困ります。戴く訳には参りません」


 綾乃はその金子に両手を添えて押し戻そうとする。


「それでは、夕食を戴くことが出来ません。どうかお納め下さい」


 慎之介は、金子を押し戻そうとする。自然と綾乃の手を両手で押さえることになった。


 二人ははっとなった。慎之介はそのまま綾乃の手を包み込むようにしっかり重ねた。


 綾乃はじっとしていた。その胸は熱く燃えるようであった。慎之介も同じだった。綾乃を見つめたが、綾乃は下を向いたままであった。


 どれほどの時間がたったのか、二人はそのままだった。


 我に返った慎之介は、


「失礼を致しました。申しわけありませんが、どうぞ、お納め下さい」


 改めて差し出す。


 ここまで言われると綾乃も、


「では、お預かりいたします。お心遣いありがとうございます」


「おいしい夕ご飯、ご馳走様でした。今日はこれで失礼致します。


 綾乃は、まだ帰って欲しくなかった。二人だけで、色々話がしたかった。いや、話などしなくても良い。側にいて欲しかった。まだ、良いではありませんかと、言いたかったが、どうしても言えなかった。せめて、下を向いて嫌ですを表すしかなかった。


 慎之介は容赦なく立ち上がった。綾乃はわざと座ったままでいた。


 慎之介は、止めて欲しかった。綾乃は黙って下を向いたままである。何とか言って欲しかった。


 堪りかねて慎之介が口を開いた。


「綾乃さん、帰ります」


 綾乃は悲しかった。立ち上がり、


「お送りいたします」


 入口まで出ると慎之介が、


「綾乃さん、ここで良いですよ。外は物騒ですから」


 行灯の灯りは入口には殆ど届かない。慎之介は綾乃を抱き寄せた。口を吸った。綾乃は嬉しかった。もう一度抱いて欲しいと、綾乃は何度思ったことか、綾乃は慎之介に身体を委ね、じっとしていた。慎之介はいつまでも口を合わせていた。二人は互いの身体をどうしていいかわからなかった。心はもう溶けていた。


 綾乃は、いつまでもいつまでも抱いていて欲しかった。


 慎之介は綾乃をそっと離すと、


「綾乃さん、明後日また来ます」


 慎之介は後ろ手で戸を閉めて、帰って行った。


 綾乃は涙が込み上げてきた。せつなかった。涙が止まらなかった。


              つづく

    26.慎之介始動す

 明け六ツ半、いつものように、晋作は急ぎ足で診療所へ向かった。珍しく、手には風呂敷包みを下げている。


 診療所に着くと、七人の列が出来ていた。晋作に気付くと皆口々に、挨拶をする。


「おはようございます。先生。昨日はありがとうございました」


 先頭は、お邦の父親である。傍に左腕を庇うようにして、その女房が頭を下げる。


「これは、昨日お話しいたしました、お邦の母親でございます」


 母親は丁寧に頭を下げながら、


「いつも、お邦がお世話になっております」


「難儀でしたね、ちょっと待って下さいね」


 母親に優しく声をかけて、晋作は中へ入って行った。


 そして、直ぐに出てきて、中へ招き入れる。


「そこへお座りなさい」


 源太は隣で、何やら薬の調合をしている。


「先生、昨日はありがとうございました」


 二人は、源太にも丁寧に挨拶をする。


「いやいや、私は何もしていない。それより、早く、晋作先生に見てもらって下さい」


 晋作は、母親の庇うようにしている左手を、そっと捲り上げる。腕全体が腫れている。特に前腕が腫れあがっている。手首から上へそっと擦るように押していく。


「痛いところがあったら,言って下さい。それから、転んだのはいつですか?」


「先生、そこ痛いです。転んだのは七日前です」


 晋作は、その周辺を確かめるように、そっと押していく。その都度、母親は痛そうに顔をしかめる。


「ひびが入っているようですね。骨折と同じですから、動かさないようにすることです。腫れはそれが原因です。治療していないのだから、腫れが引かないのは当然です。しばらく張り薬をしましょう。それと動かないように、添え木をしておきます。張り薬は、腫れが引くまで毎日取り替えます。四、五日毎日来て下さい」


 晋作は、昨夜お邦の母親の話を聞いた時、骨折を疑っていた。今朝は早起きし、豆腐を買い、それに摺り卸した生姜を混ぜ、小麦粉で耳たぶの硬さにした、その張り薬を持参した。


 早速、それを厚めに塗り、上から包帯をする。さらに添え木を当てて固定し、首から吊るした。


「先生!嘘みたいに痛みが楽になりました。ありがとうございます」


「腫れが引くと、もっと楽になりますよ。それから、親父さん、一ヵ月程左手は動かせませんから、助けてあげて下さいね」


「わかりました。何でもするつもりです」


「お母さん、遠慮しないで何でもして貰って下さいね」


「では、今日はこれで良いですよ。明日また来て下さい」


「先生、ありがとうございました」


 二人は声を合わせて礼を言う。親父は安堵したのか、気が抜けたような顔をしている。


「先生、おいくらでしょうか」


 お邦の母親が聞く。


「十六文です」


「えっ、先生!ちゃんととって下さい」


 親父が口を出す。


「だから、十六文です」


 親父は博打までして、お金を工面しようとした己の浅はかさを悔やんだ。


「すみません、ありがとうございます」


申の刻少し前、慎之介は、坂江藩江戸屋敷を訪ねた。直ぐに奥座敷へ通された。留守居役井上忠正は待ちかねていた。


「遅くなり、失礼致しました」


「いやいや、忙しい中ご足労おかけ致した。さ、もっと近こう寄られい」


 そこへ、茶菓が運ばれてきた。


「さ、どうぞ、遠くまでお出でいただいたから、喉が乾いたであろう」


 慎之介は、お茶をゆっくり飲み始めた。留守居役井上はおもむろに、


「早速だが、指南のこと、いつからお出でいただけるかな?」


「そのことで、ご相談があります」


「ほう、相談とは?」


「剣の修練は日を開けず続けた方が、良いと思います。そこで、一、十、二十の日から三日間、もしくは四日間と続けてはいかがでしょうか?」


「それは、妙案だ。藩士にはそれぞれに職務があり、三日づつ続けては交代で職務に戻る。これは、こちらとしても願ったりだ。それでお願いできないだろうか?」


「わかりました。それでは、今日は七日ですので、十日から参ります」


「うむ、よろしく頼む。それから、着替えその他、色々準備もあるだろうから、部屋を用意させていただいた。泊まりを含めて自由にお使いいただきたい」


「それは、ありがたいお心遣いありがとうございます。本所からは一刻の距離です。助かります」


「俸給は月五両とさせていただくが、よろしいか?」


「ありがたく、お受けさせていただきます」


 慎之介は両手をつき、頭を下げる。その上で


「井上様、もう一つご相談がございます」


「何かな?話されるが良い」


「他の日のことですが、但馬屋を続けても、よろしいでしょうか?」


「藩士として、迎えるわけではないので、それは自由にされるが良い」


「ありがとうございます」


 話はとんとん拍子についた。


 次の日、但馬屋伝兵衛は手放しで喜んだ。


「それはありがたいお話です。ありがとうございます。これからも、どうぞよろしくお願い致します」


 慎之介は、いつもの帳場に座った。


 この日は、いつもより客の数が多い。それは売り上げが物語っている。最近は番頭も感じている。売り上げが違うのである。慎之介は、ただ座っているだけである。


 もうじき申の刻である。慎之介は見た目は落ち着いて見えるが、内心はそわそわと落ち着かない。


 それもそのはず、今日は、綾乃との約束の日だ。小太郎も待っている。立ち上がると、


「番頭さん、今日はこれで失礼致す」


「ありがとうございました」


 番頭は深々と挨拶をする。


 慎之介は、但馬屋を出ると直ぐ急ぎ足になった。


 本所へ向かったその顔は、いかにも嬉しそうだ。心に正直な侍である。


               つづく

  27.凧揚げ

  小太郎は、朝から凧を持っては、何度となく長屋を出たり入ったりしている。またも、中を覗き込むようにして、


「おじちゃん、まだ?」


「まだですよ。お仕事があるのですから、夕方ですよ」


「夕方って、おじちゃん言った?」


「いいえ、言いませんよ」


「だったら、もう来るかもね。おいらここで待ってる」


「はいはい、好きにしなさい」


 と言いながら綾乃も、まだお出でにならないのかしら、仕事を終えてからとは聞いていませんでした。何かあったのかしら?もう、とっくにお昼はすぎたわ。やっぱり、仕事を終えてからお出でになるんだわ。但馬屋の縫物をしながら、言い聞かせた。


 そうだわ、お酒を買って来ようかしら、変かしら。


「小太郎、ちょっと買い物に行って来ます。お留守番お願いね」


「母上、おいら行って来るよ。何を買って来ます?」


「いいえ、大丈夫よ。慎之介様がお出でになったら、直ぐに帰って来ますというのですよ」


 綾乃は,慎之介様がお出でになるのは、夕方とは思っているのだが、もしやと思い、落ち着かないのである。


 朝から、狭い四畳半を何度も掃除した。食事の下ごしらえも終えている。縫物は少しも進まない。しかし、歩きながら何だか幸せだった。


 酒は初めての買い物だった。酒屋の言うままに、五合徳利入りで買った。次回からは、その徳利を利用して、一合から量り売りで買えるそうである。


 奥方様と言われて嬉しくなった。涼しい所へ置いておくと良いと教えられた。ずしりと重かった。両手で抱えて歩いている。


 慎之介様は、喜んでいただけるかしら。他に用意するものは無いかしら。考えることが楽しかった。帰り着くと、小太郎が入口の前に立っていた。


「母上、まだですよ。おじちゃん遅いね」


「そうね、もうじきお出でになりますよ」


「母上、暗くなると凧揚げが出来なくなるのですよ。だから、早く来て欲しいな」


 小太郎は凧を背にして、長屋の前を行ったり来たり走る。凧は頭の上一間程に揚がり、小太郎について回る。おいらの凧だ。おいらのものだ。嬉しくて堪らない。


 この長屋には、子供は小太郎だけである。子供のいない長屋は静かである。お寺近くの長屋には、友達がたくさんいる。本当は、お寺近くの友達に見せに行きたいが、慎之介がいつ来るかわからないので、遠くへ行きたくないのである。


 小太郎は走り疲れて、はあはあと肩で息をしながら、もしやと後ろを振り返る。


「あっ、おじちゃんだ!母上!おじちゃんが来たよ!」


 綾乃は、急ぎ入口へ出た。


 もう、嬉しくて顔に出ている。


「おじちゃーん!」


 大声を出しながら小太郎は、慎之介に走り寄って行った。凧糸を手にしっかり持って。


 僅かの距離でも凧は一間程上に揚がった。


「小太郎。うまいじゃないか!」


 小太郎は、くるりと後ろむきになり、凧を引き寄せて、


「おいら待ってたんだよ。約束したじゃないか」


「ごめんごめん!遅くなったね。これから行くか!」


「本当!行こう行こう!」


「じゃ、母上に挨拶して来る」


 見ると、綾乃が長屋の入口で立って、こちらを見ているではないか。慎之介は思わず胸が熱くなった。歩み寄ると、


「こんにちは、また来ました」


「こんにちは、お待ちしてました」


 照れたような慎之介に、綾乃は微笑みながら言う。


「これから、凧揚げに行って来ます」


「母上、行って来ます」


 小太郎が付け加えるように言う。


「おじちゃん!早く行こう!」


 小太郎は慎之介の手を引っ張る。


「では、行って来ます」


 綾乃は、一人入口へ残された。


 隅田川のほとりは、良い塩梅の風が吹いていた。遠くで凧揚げを、楽しんでいる人達がいる。


「小太郎、おじちゃんが凧を持っているから走れ」


 手を放した瞬間、凧は急角度を持って空へ揚がって行った。


「よーし!止まれ!」


 凧は風に乗って、どんどん上へ上へと揚がって行く。


「小太郎、凄いじゃないか!」


「おじちゃん!もう凧糸が無いよ!」


「よーし、そこまでだ。そのままで、引いたり緩めたりしてごらん」


「おじぎするよ!凧がおじぎする!」


「どうだ!面白いだろう。今日はここまでだ。満足したか?」


「うん!満足した」


 つられて、大人びて言う。


「よし!それじゃ、ゆっくり少しずつ巻き取りなさい」


 巻き取り終えた小太郎は、興奮冷めやらずで、帰りながら慎之介に、わめくように大声で凧のおじぎの話をする。


「ただいま!」


 小太郎は大きな声で、入口の戸を開けながら言う。開けた途端、おいしそうな煮物の醤油の匂いがする。


「母上、お腹空いた!」


「すぐご飯ですよ。手と足を洗ってらっしゃい」


「慎之介様、どうぞお上がり下さい」


「いや、私も手と足を洗って来ます」


「あら、こちらも、お子様でしたか?」


 と珍しく、綾乃が軽口を利く。


「はい!母上」


 と慎之介が迎え討つ。


「はい、それでは手拭いをどうぞ」


 にっこり笑って、綾乃が渡す。小太郎も笑っている。


「わーい!おじちゃんも子供だ」


 夕食が終わると、小太郎は凧揚げの話を、何度も何度も繰り返した。余程嬉しかったのだろう。

 

 今までは、人の凧揚げを、傍で見ているだけだった。初めて自分の凧揚げをしたのだ。しかも初めてなのに大成功。綾乃は嬉しそうに何度も何度もうなずいて聞いていた。


 小太郎の話し方が急に止まった。見ると眠っている。走り回っていたから無理もないことだが、余程疲れたのであろう。


 床を敷いて小太郎を寝せると、二人は向き合ってお茶を飲んだ。


 話すことは山ほどあるはずなのに、なぜか話が出来ない。坂江藩に月の十日程、剣術の指南をすることと、但馬屋はそれ以外の日に勤めることをやっと話した。


 慎之介はなぜか落ち着かない。胸はどきどきしている。沈黙を避けるつもりの言葉が、


「それでは、これで失礼致します」


 慎之介は、何ということを言ったのだと思ったが、言った以上後へは引けない。綾乃は黙って下を向いたままだ。


 慎之介は立ち上がって土間へ向かうと、綾乃もついて来た。土間に二人は向き合った。


 慎之介は、黙って綾乃を抱きしめた。強く抱きしめた。そして言った。


「好きです。綾乃さん好きです」


 綾乃の目から涙がこぼれた。


          つづく

次回第28回は8月15日月曜日です。