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 経堂駅を降りて10分ほど歩いた。そこは古びた2階建てのアパート2階2号室である。


 藤野はまさかに自分の部屋に来てくれるとは夢にも思わなかった。鍵を開け先に入り、


「散らかってるけど入って!」


 入口は台所と一緒になっていた。右側はバスとトイレ、その奥は6畳の和室。


 自然に言ったつもりが、少し声が上ずっていた。大それた気持ちなど微塵もなかった。しかし、胸がどきどきしていた。


「綺麗にしているのね」


「そこに座って、今テーブル出すね」


 台所にあったガラステーブルを持って来た。応接セット用である。座りテーブルには少し高さがあるが問題なし。


「今、ダビングするね。珈琲どうぞ!」


「ダビングは後で良いわ。ねえ、今聞かせて」


 麗子は涙が堪えなくなる落語と聞いて、気になって仕方がない。落語は笑い話と思っていた。


「じゃ、最初に中村仲蔵掛けるね。これは5代目圓楽だよ」


 麗子には生まれて初めての落語である。これまで一度も聞いたことはなかった。


 聞き終えての麗子は、目にいっぱい涙を貯めていた。藤野も同じである。何度聞いてもそうなる。


「どうだった?」


「言葉が無いわ。あたし思い違いしていた。落語は笑い話と思っていたわ。圓楽がすごいのかしら、直接心にくるわね」


「芝浜も聞く?」


「聞きたい。聞かせて」


「これは志ん朝の芝浜。聞いててね。ちょっとコンビニに行って来る」


 弁当とケーキを買って来た。芝浜はラストに近いところだった。後ろに座って聞いた。


 再生が終わりCDを仕舞いながら麗子を見ると、目に涙を貯め嬉しそうな表情をしていた。そう言う落語だった。


「落語って素晴らしいのね。藤野君ありがとう!」


「弁当食べよう。お腹空いたろう!」


「あら、ありがとう!藤野君は弁当良く買うの?」


「うん、そうだよ。食事は弁当か、外食だね」


「自炊はしないの?」


「たまにね。だから米とか味噌とか、それに食材は冷蔵庫に買い置きしてあるんだ」


 食事も終わり、お茶しながらそんな話をしていたら11時近くになっていた。互いにわかっていたが言わなかった。


 11時を過ぎた頃、


「こんな時間になったのね。帰らなくちゃ」


「これから帰ったら物騒だよ。泊まっていかない」


「そんな……」


「同級生じゃない!何にも心配ないよ」


「そうね、これから帰れば12時を過ぎてしまうわ。怖いわね」


「そうだよ。泊まって」


 麗子はシャワー浴びて、藤野の用意したパジャマを着た。布団は一組しかなかった。


 麗子は布団に寝た。藤野は座布団の上に毛布をくるまって寝た。二人はなかなか寝付けなかった。


 麗子は思った。


 『藤野君寒くないかしら?隣に入ったらと言おうかしら。でも、勝手に入ってきたらどうしよう。防げないかも』


 藤野は思った。


『隣に寝ようかな。それは絶対にしてはいけない。僕を信じて泊った川村の信義を裏切ることになる。川村が好きだ。死ぬほど好きだ。そんなことをしたら川村に結婚は申し込めなくなる』


 藤野は繰り返し自問自答していた。そのうちいつの間にか眠ってしまった。


 ふと目が覚めた。掛け布団が掛けてあった。ひょっとして帰ったのかと飛び起きた。


「おはようございます。昨日は寒かったでしょう。ごめんなさい。朝ごはんにしましょう」


 ハムエッグに味噌汁とごはん。おいしかった。こんなにおいしい朝ごはんは食べたことがない。麗子がにっこり笑って、


「お代わりどうぞ」


 藤野はなぜか胸が詰まってきた。箸を置くと、


「川村、結婚して下さい!」


「えっ、急にどうしたの?」


「結婚して下さい!」


「本気で言ってるの?」


「もちろん!結婚して下さい!」


「あたしで良いの?本当にあたしで良いの?」


「お願いします」


「はい、よろしくお願いします」


 麗子の顔から、みるみるうちに涙が溢れこぼれてきた。


 麗子の承諾に藤野は一瞬信じられない顔をしたが、興奮した顔になって、


「ありがとう。きっと幸せにします」


 月並みな言葉だったが、思いを込めて約束した。


                       終わり

次回は6月21日金曜日新作を掲載します