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           29.天国と地獄

 いよいよ一日になった。前夜、番頭と手代二人加えた四人で反物と帯などの付属品を運び入れた。陳列が終わったのは、四つ半(23時)を過ぎていた。


 新店は間口一間の入口。続く八畳分を土間に、その続きは六畳の板敷となっていた。


 八畳の土間は左右の壁下に半間幅の板敷が作られた。その上に洗い張りした反物が一反づつ並べられていた。


 どれも二尺づつ巻きほどき広げてあった。それは左右に十反づつ並べられ、続く六畳の板敷手前には左右に五反づつ合計三十反が並べられていた。


 明け六つ半(七時)手代が看板を手に表に出ると、驚いた。七、八人の人が店前に立っている。手代はびっくりして、


「おはようございます」


店前の人々も口々に、


「おはよう!何の店だ?」


手代は頭を下げながら看板を掛けた。そこには、


【 洗い張り呉服 】と書いてあった。


「何だ!洗い張りやか」


「いや、呉服とあるからには着物を売るんだろう?」


「しかし、洗い張り呉服とはどんな着物だ?」


「おい!見せろよ!」


「はい!五つ(八時)に開店いたしますのそれまでお待ち下さい」


「見るだけだから、ちょっと見せろ!」


「お前、馬鹿だな、それじゃ商売にならないだろう」


 みんなの話声を聞きつけて、人々が寄って来た。いつの間にか二十人近くの人になった。


「何の店だ?」 「もう、開いてるのか?」


 手代は身体のあっちこちを引っ張られて困ってしまった。それでも無理無理に店内に戻ろうとすると、おみつが出て来た。


「おはようございます。店主のおみつと申します。今朝は早くからお越し下さいましてありがとうございます。まだ開店には早うございますが、せっかくのお越しでございます。どうぞお入り下さいませ」


 声を聞いて顔を見て驚いた。美人画から抜け出でたような美人である。


 男たちは見つめている内に、自分一人に挨拶された気になり静かに頭を下げ頷いた。女たちはその美しさにため息をついた。


 客はぞろぞろとおみつの後から店に入って行った。手代は最後に入って行った。


 客は店に入るなり、両側に目も覚めるような花柄の反物から、上品さこの上ないような淡い若草色の反物やらずらりと並んでいるのを見て目を輝かせた。。


 こんな素敵なそして華やかな反物があったのだと、特に女性客は驚いた。日頃は紺か群青色の暗めの無地がほとんどだった。しかし、一番驚いたのは値段だった。


 今までよそ行きとして買っていた反物に、少し金額を足せば買える額である。気に入った反物の前に立ち、女は自分自身が着た姿を想い描き、男の着せてみたい相手を想い描いた。


 客はその反面値段に疑問を思った。客がなぜですかとおみつに聞くと、さらりとそのままを言った。


「洗い張りした反物です。当然の値段です」


 客は改めて手に取ってみたが、やはり新品と変わらない。それもそのはず、ほとんど着用していない着物の洗い張りした反物だったからである。


 但馬屋の客は、最低年に2回は購入する。着る期間が少ないので、痛みようが無かった。違うのは八つに裁断されていることであった。


 いつの間にか客数がさらに増えている。男の客の方が多い。


異例のことである。男の客が呉服店に一人で入る事など当時も極めて少なかった。今も昔も同じである。


 おみつの戦略は当たった。いわくつきの住居使用は偶然であるが、業種と店名を名乗らぬことによりさらに憶測を生んだ。その口コミ宣伝効果は大きかった。


 口コミしかない時代の宣伝は難しかった。この頃はチラシすらない。又、口コミと言っても歩ける範囲が主で、広範囲に及ぶことは少なかった。


 見物客は閉店の暮れ六つまで絶えることは無かった。訪れた客の話がその日のうちに広がり来店した。おみつの顔姿を見に来る男客も多かった。客の入りだけで言うと大繁盛である。


 おみつは不思議な女だった。一日中客の間に立ち、にこやかに接していた。狭い店だから人の影になるはずだが、どこに居ても目立った。そしてそこはなぜか明るかった。


「ご苦労様、今日は朝から大変でしたね。ありがとう。お蕎麦でも食べてお帰り」


 半紙に小銭を包んで手代に渡した。


「とんでもありません。私が至らなかったばかりに、今日は一反も売れませんでした。申し訳ありません。これはいただくわけには参りません」


「商売は始まったばかりですよ。これからです。明日もよろしくお願いしますね」


 おみつのにこやかな言葉に、手代は申し訳なさそうに沈痛な面持ちをしていた。


 手代を送り出した後、おみつはぽつーんと板の間に座った。やるだけのことはやったと言えるだろうか?さすがにおみつは落胆していた。


 せめて一反でも売れると考えようもあった。店舗と仕入れに大変な金額が出ている。いくら考えても対応策は浮かばない。


 明日の客は、当然今日より少なくなるだろう。今日以上に売れる可能性は無くなるのだ。まして、今日は売り上げ無し。


 おみつの胸は張り裂けそうだった。考えが甘かったのか、何か気付かぬ考え落としが無いだろうか。いくら考えても思いつかない。誰にも相談は出来ない。まして、父喜兵衛には。


                                 つづく

最終回第30回は7月11日火曜日です。