Shopping Cart
Your Cart is Empty
Quantity:
Subtotal
Taxes
Shipping
Total
There was an error with PayPalClick here to try again
CelebrateThank you for your business!You should be receiving an order confirmation from Paypal shortly.Exit Shopping Cart

              18、生きる

   瞬間、喜兵衛は佳代を抱えたまま後ろに引き倒された。尾てい骨から落ちた。あまりの痛さに声が出た。その頭をこぶしで二度殴られ気が遠くなっていった。


「しっかりしなさい!もう大丈夫だ」


 男は佳代を抱き上げるように起こした。佳代は一瞬のことで何が起こったかわからなかったが、喜兵衛を見てその顔を両手で抱え、


「おまえさん!おまえさん!」


 と必死に呼びかける。両足が縛られたままで身動きが取れない。男は気付き、解いてやる。


「知り合いか?」


「いいえ、夫です」


「ひどいことをするなあ」


 男は夫が妻を川へ投げ込もうとしたと、勘違いをしていた。


 佳代は喜兵衛を揺すりながらさらに声をかける。何度もの佳代の声で喜兵衛は薄目を開けた。そして、何が起こったかを悟った。


「どなたかは存じ上げませんが、ありがとうございました」


「そうか!おまえさん達、死のうとしたのか。何があったか知らないが、全ては生きてこそだ。死んで花実が咲くものか」


 佳代は顔を両手で押さえすすり泣いた。


「私の家はすぐそこだ、一緒に来なさい」


 改めて男を見ると、隠居風の初老の武士だった。


 喜兵衛は事の成り行きに頭が切り変わった。


「恐れ入りますが、お名前をお聞かせ下さいませんか?」


「名乗るほどの者でない。一緒に来られい」


「いえ、もう大丈夫でございます。ありがとうございます。せめてお名前を」


「縁があれば会うこともあるだろう。命を粗末にするではないぞ」


 武士は静かに言って立ち去った。喜兵衛のきっぱりした口調に決意を感じたのだろう。


「佳代、帰ろう」


 佳代がけげんな顔をすると、


「明け渡しは明日だ。それまでは私の家だ」


 次の朝、明け六つ。喜兵衛は売掛台帳を風呂敷に包み、死出に用意していた一両を懐にして、佳代と呉服丹波屋を後にした。

 喜兵衛と佳代は橘町の長屋に住んだ。商いの日本橋に近いだけでなく両国橋に近いからだ。おみつを探していた。


 売掛金を回収し、それを元手に呉服の商いを続けた。当時では珍しい現金直売りや急ぎ仕立てもした。仕立ては佳代が担った。


 寝食を惜しんで働いた。六年目には小さな店を出せた。それから五年目、室町に今の店を出した。今では奉公人も七人を数える。


 二人はおみつのことは片時も忘れたことはなかった。思い出せば悔いることのみだった。生きて元気でいることを祈り願っていた。


 一昨年、おみつも二十歳になったはずだ。あの日のことを思い出してくれたら、もしかしてこの茶店を探して来るかも知れない。


 おみつを置き去りにした日は、月末近くの二十九日である。二人は毎月二十九日にこの茶店を訪れるようになった。


 そして、会えた。奇跡のようなことだ。おみつが心を開いてくれないことは当たり前のことだ。どんなことをしても償えないことはわかっている。


 二人の心はもう真っ暗では無かった。おみつが元気で生きていた。私達も生きていて良かった。足取りは重かったが、一条の光が二人の心に射していた。


 喜兵衛は佳代を後ろ手でかばうようにして、室町へ帰って行った。


 「ただいま!」


 良太の明るい声につられるように、


「お帰りなさい!お腹空いたでしょう」


 あじの開きと焼きなすに冷ややっこ、瑞々しく漬け上がったきゅうりのぬか漬け。そうめんを少し落とした吸い物。


 おみつの作る夏の夕食は目にも涼しかった。良太はたちまち三杯のご飯をお代わりした。良太の早食いは癖である。おみつはまだ一膳のままだ。


 良太のお腹が落ち着いたとみると、具合良くお茶が差し出される。おみつは心得たものだ。


「ところで、何か変わったことでもあった?」


 良太がにっこり笑って聞く。


「ううん、何でもないのよ」


 おみつは明るく答えた。話さないことに決めた。良太が風呂に行っている間に思案したことである。


「おかしいな、何だかおかしいな。隠し事はいけないな」


 良太はにっこり笑いながらつぶやくように言う。そして立ち上がるとおみつのお腹に耳を当てた。


「いきなりなにするのよ」


と言いながらおみつは嬉しそうだった。


 良太は耳を当てたままお腹をやさしく撫でながら


「話してごらん!お母さん隠し事をしてるよ」


 おみつは幸せだった。やっぱり言うの止めようと思った。その時お腹の子が動いた。おみつにははっきりわかった。


「おみつ!動いたぞ!おいらの子だ!」


 良太にもはっきりわかった。


 おみつの目から涙がこぼれて来た。嬉しかった。本当に嬉しかった。言葉で言い表せなかった。お腹に耳を当てた良太の頭をそっと抱いた。


                               つづく

次回は4月25日火曜日です