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      8、危機一髪

  昼四つに四半刻前、女房は一平に言われた通り、長屋を出た。後ろを振り返りたかったが堪えた。


 一平がついて来てくれてるか不安だった。女房は名をおよしと言った。


 年の頃二十七、八歳であろうか、細面に切れ長の目。濡れたような受け口。長屋には珍しく妖しい雰囲気を持つ。


 岡場所の十年の年季が明け、大工の亭主とこの長屋で所帯を持ち三年になる。


 一平は薪の中から手ごろな1本を手に、一町ほど後から歩いた。 (註、1町=109メートル)


 永代橋に着いたが、両橋のたもとに誰もいない。約束の刻限にはまだ間がある。およしは手前のたもとに立った。


 ほどなくして代貸が二人の手下を連れてやって来た。およしを見ると歩きながら、


「ついて来い!」


 と言いそのまま歩き進む。


「うちの人はどこですか?」


 およしが不安げに言うと、


「これからそこへ行く。ついて来い!」


 代貸を先頭におよしが続き、その後に手下が横並びに二人歩く。傍目にはただの通行人としか見えない。同行する手下が少ないにはわけがあるのだろう。


 やがて、街中を少し離れた一軒家の前に着いた。代貸は振り返ると、


「会わせてやる。入れ!お前たちはそこで見張ってろ!」


 代貸はおよしの背を押し、どすの利いた声で、


「襖を開けて中へ入れ!亭主が待ってる」


 およしは恐る恐る開けた。そこには布団が敷いてあった。咄嗟に逃げようと向き直った。そこをどんと突き飛ばされた。布団の上にあおむけに倒れた。


「おとなしくしろ!亭主とは話がついてる。返して欲しくないのか?」


「嫌です!うちの人に会わせて下さい」


「亭主がどうなってもいいのか!」


「いいえ!無事でいるのか確かめたいのです」


 代貸はにやりと笑い、


「その押入れを開けろ!」


 中には両手両足を縛られ、口に猿ぐつわをした亭主が転がされていた。


 およしは思わず駆け寄った。大分殴られたと見え顔は血だらけだった。


「あんた!しっかりして!」


 亭主は生きていた。代貸はその胸元をつかむと、臭い息を吐きながら、


「おい!約束だな!」


 亭主は弱々しくうなずいた。


「あんた!本気?本気?あんた本気?」


 およしは耳元で悲しそうに聞く。亭主はうなずき、か細い声で、


「すまない」


「わかったか!おとなしくすりゃあ、約束通り帰してやる」


 およしは観念したのか、うなだれたまま押入れを閉めようとした。


「開けとけ!亭主にも楽しませてやる。しっかり見せてやれ!」


「脱げ!」


 およしは能面のような無表情になった。帯を解き始めた。


「待て」


 静かな物言いが聞こえた。いつの間に来たのか一平が立っていた。


「なにっ!誰だ!」


 代貸は振り返った。一平を見て一瞬ひるんだが、短刀を逆手に持ち突っ込んで来た。いつ抜いたかわからぬ速さだった。


 びきっ!と鈍い音が聞こえた。短刀が落ちた。右手首が中ほどから変に折れ曲がっている。


 代貸は、はて?と言うかの顔をして自分の腕を見た。瞬間、激痛が走った。その手を押さえ、あまりの痛さに思わず座り込んだ。


 一平は表情一つ変えず、代貸の落とした短刀を拾い上げ、逆手に持ち、心の臓に当てた。そこで止めた。


「やめてくれ!頼む!俺が悪かった。許してくれ!」


 代貸の身体は瘧(おこり)が起きたかのように震えている。必死の声だが上ずっている。一平は無言だ。


「お願いします。何でもします。許して下さい」


 情けない代貸である。なかなかの腕前であるようだが、根性に欠ける。だから阿漕なことをするのだろう。


「私は静かに暮らしている。私の長屋を騒がすな」


 静かな物言いだが、不気味だった。


 代貸は竦みながらも、痛さを忘れて必死に叫ぶように言った。


「わかりました!二度と先生の長屋には行きません!二度と行きません!許して下さい!」


「その言葉忘れるなよ」


 一平は立ち上がると、その短刀を使い亭主の縄を切りほどいた。およしは駆け寄り一生懸命介抱する。


 一平はおよしの介抱するけなげな様子を見て、怒りが込み上げて来た。自分が助かるために女房を捨てた男である。


 およしは日頃から亭主のことは、行く先々で悪い男だとあれこれ聞いていた。しかし、誰が何と言おうと聞く耳を持たなかった。


 それは苦界にいた時、およしの心を初めて溶かした男であったからである。生涯の亭主と思っている。


 一平は亭主に、一言苦言を呈したいと思ったが止めた。甘えるように介抱される亭主を見て、少し冷ややかに言った。


「歩けるか?」


「はい、ありがとうございます」


 亭主はよろよろと立ち上がった。およしに支えられながら一歩ずつゆっくり歩いた。


 入口に手下が二人、仰向けに気絶していた。一平が背中を起こしそれぞれに活を入れた。二人ともきょとんとした顔をして、きょろきょろと周りを見回した。


 一平に気付くと逃げ出そうとした。


「待て!代貸を連れて行け!」


 長屋に帰り着くと、きぬが一平の部屋で朝のまま待っていた。


 きぬは一直線に抱きついて来た。声を上げて泣く。身体中震わせながら。


 一平はせつなくて可愛くて、


「ごめんね、心配させたね。お茶を淹れてくれるか?」


 長屋は静けさを取り戻した。


 以来、代貸たちは長屋に来なくなった。


                              つづく

次回第9回は9月19日火曜日午前10時に掲載します