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    2、一輪の花

 返事がない。今、中に入ったばかりなのにときぬは思った。


「お尋ねしたいことがございます」


 もう一度声をかけた。やはり返事がない。三度目は声をかけるのをためらった。少しの間そのまま立っていたが、もう声はかけられなかった。踵を変えようとしたとき、


「何だ!」


 さらりと入口の戸が開いた。きぬは慌てるように、


「お尋ねしたいことがございます」


「だから、何だ!」


「お名前をまだお聞きしておりません」


「そんなことか、一平だ」


 無愛想と言うか眉一つ動かさず、又も入口の戸を閉めようとした。


「やはりそうでございました。きぬにございます。お気付きになられませんか?」


 きぬは、じっと一平を見つめた。見返す一平の顔が笑顔に変わった。


「おきぬちゃんか?」


「はい!きぬです」


「見違えたなあ!綺麗になったね。仁兵衛殿はご健在か?」


「いいえ、父は昨年の冬亡くなりました」


「なんと!仁兵衛殿が亡くなられた?」


「はい、風邪がもとで半月ほど寝込んだ後、あっという間でした」


「仁兵衛殿が亡くなられたか・・・・・」


 一平は言葉を無くした。三年前同じ長屋に住んでいた。仁兵衛は妻を亡くして、きぬとの二人住まいだった。


 隣に住む仁兵衛は、一平の生活の窮状を見兼ね、賃粉切りを紹介し手解きした。一平の恩人である。


「さ、ここでは話も出来ぬ。むさくるしい所だが中へ入りなさい」


 きぬを一間限りの畳敷きに招き入れた。


「お茶を淹れて来る。ちょっと待ってくれ」


「わたしが致します。させて下さい」


「そうか、すまないね」


 鉄瓶のお湯はぬるかった。きぬはかまどに火打石で上手に火をつけた。

「偶然だね。隣に越して来るなんて・・・・・」


「偶然じゃありません。たばこやの親爺さんに、今の長屋がお店から遠いのでどこか近い長屋はありませんかとに相談しました。すると、一平さんは知ってるか?と訊かれました」


「お父さんに紹介されてうちへ来た人だが、近くに住んでいるよと教えてくれたのです。懐かしくてすかさず言いました。そこを紹介して下さいと」


「二日後に連絡いただきました。今、空きがあると言うのです。直ぐ引っ越しました。引っ越してみると、なんとお隣が一平さんのお部屋だったのです。これは偶然です」


「嬉しくて嬉しくて、直ぐにご挨拶に行きました。でも留守でがっかりしました。昨日は壁に耳を付けて、いらっしゃるかどうか様子をうかがっていました」


「カツカツカツと賃粉切りの音がするので、喜び勇んで表に出て、入口で声をかけました。すると返事がないばかりか、賃粉切りの音まで聞こえなくなるのです」


「それで今朝、朝の顔洗いを待っていたのです」


 きぬは一気に話した。嬉しそうだ。にこにこしている。


「そうか、悪かったね」


 短い一言だった。きぬは、一平の言葉少なは以前と同じであり、気にしなかった。


「お茶が入りました。どうぞ!」


「おきぬちゃん、苦労したね。すると、今は賃粉切りをしてるのかな?」


「はい、たばこ屋の親爺さんが父が亡くなったとき、勧めてくれました。父が健在の時から手伝っていましたから慣れています。親父さんが仁兵衛さんの仕事と変わらないと褒めてくれます。でも手のひらがこんなになりました」


 一平の前に差し出した。小さな手のひらに包丁たこがいくつも出来ていた。新しく血の滲んだ箇所もあった。痛々しい程である。


 一平は、思わず両手でそっと包むように手を添えた。


「痛くはないか?」


 きぬは頬を赤らめて、


「恥ずかしい!汚いでしょう?」


「おきぬちゃん、手のひら全体に力が入り過ぎているんだね。今度教えてあげよう」


「はい、お願いします」


 きぬは頬をますます赤らめて小さな声で言う。


「大きくなったね、おきぬちゃんとはもう呼びにくいな。いくつになった?」


「はい、来月で十八歳になります。これまで通りに呼んで下さい」


「うん?言葉遣いも大人になったね。じゃ、これまで通りおきぬちゃんと呼ぶよ」


「はい、よろしくお願いします」


 きぬは照れくさいのか、恥ずかしそうにお茶を差し替えた。


 一平はそのお茶をおいしそうに飲んだ。江戸に出て来てから、初めてのおいしいお茶だった。


 一平の心に、明るい一輪の花が咲いた。


                                  つづく

次回3回は8月8日火曜日に掲載致します。