Shopping Cart
Your Cart is Empty
Quantity:
Subtotal
Taxes
Shipping
Total
There was an error with PayPalClick here to try again
CelebrateThank you for your business!You should be receiving an order confirmation from Paypal shortly.Exit Shopping Cart

 30、どんぶりめし(最終回)

 翌朝五つ刻(朝八時)、大家が訪ねて来た。丁寧なお祝いの挨拶の後、


「先生、この長屋はお二人の住まいには狭いのではと思いまして、伺いました」


「うん、確かに狭い。近々引っ越すつもりでいた。大家さんには承諾を得ずの二人住まい、すまなかったな」


「いえ、とんでもありません。それは構いません。実は

直ぐ近くに二階建て長屋が空いております。このご時世ですから、もう半年も空き屋になっております」



「それは良いね、早速だが見せて貰おうか?」


「へい、ご案内いたします」


「お静、一緒に見てみよう」


 長屋は、間口二間に奥行き三間の二階建て。一階は二畳の土間に二畳の台所と六畳間、二階は6畳間に物干し台が付


いていた。


「履物はそのままでお上がり下さい」


「ずいぶんと、埃が溜まっているな」


 兵馬とお静は大家に続いて見て回った。兵馬はお静に、


「どうする?」


 お静はこんな広い家に住めるなんてと驚いていた。溜まった埃など気にもならなかった。しかし、家賃が高いだろうと遠慮して返事をしなかった。


 大家は断られるのかと思って、


「いかがですか?この通り埃が大分溜まっております。本当のことを言いますと、半年どころかもう直ぐ1年になります。このまま空けておきますと物騒です。お祝いと言うことでお安くさせて頂きます」


「いくらだ?」


「へい、二千文ですがお祝いと言うことで千八百文とさせていただきます」


(一両=十万円=四千文、一文=二十五円)


「良いだろう。いつから住める?」


「へ、明日からでも結構です。今月の家賃は今お住まいの家賃、五百文のみで結構です」


「お静、どうする?」


 お静はあまりにも高額で躊躇していると、


「気に入らないのかな?」


「いえ、とんでもありません。あまりにも贅沢で……」


「そうか、じゃ、大家、借りることにする」


「ほんとですか、ありがとうございます」


 早速、新居の掃除に取りかかった。掃除が終わると直ぐ引っ越しを始めた。


 半町ほどの距離しかなく、荷物が少ないこともあり一刻もかからずで終わった。二人はその日から移り住んだ。


 その夜から長くて短い夜が始まった。


 めし屋は祝言の翌日から、親爺の重蔵より出入り禁止にさせられた。重蔵には我が子以上の娘だった。


 お静には夢のような暮らしだった。兵馬の世話をすることが嬉しくてたまらない。いつしか子を宿っていた。


 冬が来て春が来て夏が過ぎた。この秋に元気な男の子を生んだ。兵馬はその子に一馬と名付けた。


 その日、兵馬は道場から帰るといつもの如く身体を拭き、単衣に着替え昼飯食べ始めた。


 寝てたはずの一馬が泣き出した。


「すみません!」


 お静は駆け寄ると一馬を抱きかかえ、小さな乳首を含ませた。一馬はお腹が空いていたのであろう。泣き止んだ。


 その時、


「ごめん!」


 入口を叩く者がいる。お静は小ぶりの乳房を胸元に納め、玄関口へ出た。


「どなた様でいらっしゃいますか?」


「橘です。神代殿は御在宅ですか?」


 温かい声音であった。お静の胸は早鐘のように高鳴った。何と返答すべきか……。橘に会うのは祝言以来である。


「お通ししなさい!」


 兵馬の声に引き戸開けた。


「奥方お元気でしたか?ご無沙汰しております」


橘は内心大きく動揺していた。我が娘と間近に向かい合ったのである。お静は我が娘であるとは知るはずもない。


「おかげさまで元気に致しております。先だっては、過分なお祝いありがとうございました」


「いや、何の。気持ちばかりでござった」


「どうぞ、お上がり下さいませ」


 幼子の時から武家娘としてしつけられたお静には、自然の言葉遣いであった。


「どうぞお座り下され」


 兵馬が座布団勧める。


「おめでとうござる。この度はお子が産まれたと聞き、お祝いに参上仕った。これは心ばかりのお祝いでござる」


 半紙包みの金子を差し出した。


「そんな、堅苦しいことをなさらずとも良い。それより、遠慮なさらずどんどん遊びに来て下され」


 兵馬は、にっこり笑いながら金子を差し戻す。


「兵馬殿せめてもの心持です。お納め下さい。お願い申す」


 橘は両手で金子を差し戻しながら、声を落とし切実に言う。お祝いの名を借りた早苗への償いと、娘の幸せ願う気持ちである。


「わかり申した。では、今日は勝手ながら私の思う通りにさせて貰います」


 お静がお茶を差し出した。


「お静、橘殿から一馬の出産祝いを戴いた。お礼を申し上げなさい」


「度重なるお祝いをいただきまして、ありがとうございます」


「いや、神代殿には大変にお世話になり申した。こう言うお祝い事でもなければ気持ちの表しようがありません」


「お静、一馬を連れて来なさい」


「はい」


 お静は胸が締め付けられた。実の父である。それはまだ内密の事である。心は父の胸に飛び込んで行きたかった。


「橘殿に一馬を抱いて貰いなさい」


 兵馬の声にお静は、一馬を橘へそっと抱き渡した。その際、二人の手が触れた。親子の手が初めて触れた。


 橘はお静の手が触れたとき、夢かと思った。嬉しくて握りしめたかったがぐっと堪えた。


「神代殿によく似ておる。かわいいのお!かわいいのお!


 橘は一馬に頬ずりをする。その時、思いがけない兵馬の一言を聞いた。


「一馬!じいだぞ!お前のじいだぞ。おじいさんだぞ。良かったねー!」


 橘とお静はびっくりして、同時に兵馬を見た。


 兵馬はお静に、


「お静、お前の父上だ。改めてご挨拶申し上げなさい」


 お静は突然のことにどうして良いかわからなくなった。


立ったまま、


「お静です。よろしく願い致します」


 その言葉を言うのがやっとだった。身体が震えて来た。


「知っておったのか?」


 橘が目を潤ませながら優しく言う。


「私が全てを話した」


 兵馬が言いながら、橘から一馬を抱き上げる。


「お静、すまなかった。早苗ともどもに、大変な苦労させてしまった……それでも許してくれるのか?」


 お静はこっくりと頭を下げた。


 橘はお静に、申し訳なさと愛おしさに思わず抱きしめた。力いっぱいに抱きしめた。そうせずにはいられなかった。


 その腕の中でお静は泣き出した。身体を震わせ、声を殺して泣いた。


 橘の目の前に、野菊のかんざしがお静の身体と一緒に震えている。早苗が喜んでくれている。


 『早苗ありがとう』


 橘はこぼれる涙を拭こうともせずつぶやいた。


 兵馬は一馬を抱いて、そっとその場を離れた。思えばお静の運んでくれたどんぶりめしが縁であった。


                        終わり

 新作は再来週9月25日よりスタートします。ご期待に副う内容と自信を持って掲載します。